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「塙」って? 赤塚城と志村城

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2017.5.30 「塙」って? 赤塚城と志村城
 
千葉氏と言えば、千葉氏の一族の武蔵千葉氏が現在の板橋区赤塚に城を造った場所も、やはり武蔵野台地の舌状の端(はな)の同じような地形の所で、今は高島平団地となっている崖下の平らな低地は中世には海で、江戸時代にもまだ「徳丸ヶ原」と呼ばれていた湿地帯だったようですが、この台地の地名の「赤塚」は、台上に「赤塚」と呼ばれる塚があったことに由来するそうですから、中世に城が造られたこの台地の端にもやはり古墳群があったのです。
 
「板橋区史跡 赤塚城本丸跡」の碑
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この一帯は現在は赤塚城址公園などになっていて、美術館や郷土資料館などが建っており、台地の下には海の痕跡かな?と思われる大きな池があります。
 
近くの板橋区志村には、豊島氏一族の志村氏によって築かれ、赤塚城に拠った武蔵千葉氏が赤塚城の支城として使ったという志村城址があるのですが、この城もまた、標高20mの舌状台地の端(はな)に造られていました。この城跡は、現在は志村熊野神社や区立板橋小学校などになっており、台地の縁のハケは志村城山公園になっていて、東の崖下には、やはり海の痕跡かな?と思われる大きな池があります。
 
志村城山公園
 
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ここにある熊野神社は志村城の二郭跡に建てられていて、境内には空堀跡が残っているのだそうですが、ここに行った時には、志村城という城があったこともここが城跡だということも全く知らなかったので<(_ _)>、ハケの地形に気を取られて何も気がつきませんでした(T_T)。「視覚を真に司っているのは眼ではなく知識」なのです。社殿は古墳上に建っているそうですから、この台地の端にも古墳が造られていたのですね。
 
赤塚城に行った時も、実は城跡のことは全く知らず<(_ _)>、赤塚にあるという東京大仏を見に行ったのですが、その付近の山あり谷ありの地形が面白かったのでウロウロしていたらたまたま「赤塚城本丸跡」に出たのです(^o^)
 
誰のお城だったのだろう?と説明板を読んでみたのですが、その時は千葉の人がなぜ板橋に城を造っていたのかさっぱり分かりませんでした<(_ _)>。でも、去年これもたまたまだったのですが、志村城址と猪鼻城址を見たことでやっとすべてが繋がってきました\(^o^)/。
 
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大治元(1126)年に千葉介常重が猪鼻城を築城してから、石橋山合戦で敗走した頼朝を助けたことで奥州や九州等にも所領を増やして栄えていた千葉氏は、康正元(1455)年に、前年に勃発した古河公方と鎌倉公方(堀越公方)の対立による騒乱(享禄の大乱)に際して内紛が起き、上杉方に付いた宗家の猪鼻城は足利方に付いた一族の馬加(まくわり)城主・馬加康胤、小弓(おゆみ)城主・原胤房らに攻められて落城し、城主父子は自刃して宗家は滅亡してしまったのだそうです(T_T)
 
その時に、扇谷上杉氏を頼って武蔵に逃れた城主の弟の子の実胤・自胤が宗家の嫡流として太田道灌に庇護され、実胤は武蔵石浜城に、自胤は赤塚城に置かれて「武蔵千葉氏」になったのだそうです。だから千葉氏が武蔵の赤塚城の城主になっていたのですね(^o^)
 
そして赤塚城や志村城が造られていたのも、猪鼻城と同じような海に面した古墳のある標高20mの舌状台地の端(塙・鼻)だったのです。




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