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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?7

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2017.4.23 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?7

 

塚原卜伝はただの剣士ではなく、塚原城のお殿様だったようです(^o^)

 

wikipediaによれば、「卜伝の回国修行の行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる」のだそうです。これも事実かどうかは分かりませんが、34千石とはいえ城主が旅に出るのであれば、それなりのお供は付いて行っていたのでしょうね(^o^)。まだ子のいなかった城主に万が一のことがあれば一大事ですし。

 

足利義輝や足利義昭や山本勘助らに剣術指南をしたという卜伝は、44歳の時に塚原安義の娘を娶ったのだそうですが、その新妻が間もなく病死してしまったため、塚原一族から幹重を養子に迎えて跡を継がせたのだそうです。

 

けれどこの塚原城も、卜伝が没した20年後には佐竹義重・義宣親子によって城主は殺され、城は滅ぼされてしまったわけですね<(_ _)>

 

初代・鹿島氏になった吉田成幹(鹿島三郎)から数代後の安重が初代塚原城主になったそうなので、塚原城はどの辺りにあったのか調べてみたのですが、行方に「字塚原」という地名があったらしいことは分かったものの、その場所もそこだったのかどうかも分かりませんでした<(_ _)>。でも、塚原もやはり地名でしょうから、地域の資料や古い字名などにはなにか手がかりが残っているかもしれません(^o^)

 

例えば、鹿島城の周辺には城山・宮中・宮下・神野などというただならぬ地名が残っていますが、地名はほんとうに大きな手掛かりなのです。


イメージ 1

 

やはり、大掾氏の子孫で武家で城主であった「平姓鹿島氏」が鹿島神宮の神官や宮司になったことはなく、鹿島神宮の宮司はずっと中臣連の子孫が世襲していたようです。

 

歴史の一部分だけを見てつじつまを合わせるような解釈をすると「平姓鹿島氏は鹿島神宮の大宮司であり、剣豪・塚原卜伝は、鹿島神宮の神官の子であった」というようなおかしな説が出来てしまうのですよね(^_-)

 

そういえば宮本武蔵も、漫画では「宮本村の百姓のセガレのタケゾウ」というような設定になっていましたが、これも創作だったようです。

 

私は自分に知識のないことは、教科書などはもちろんのこと漫画でも小説でも、本に書いてあることはつい事実なのだと信じてしまい<(_ _)>、でもなんだか納得できないな~と思っていたのですが、納得できない点を突き詰めて考えてみたら、そう感じる部分は「恣意的なつじつま合わせの解釈や創作」であって、要するに「うそばっか」だからだったのだということがやっと分かってきました。

 

日本の歴史はその始まりの「天孫降臨」からして大ウソだったのです<(_ _)>

 

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