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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?5

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2017.4.22 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?5

 

「塚原卜伝は、鹿島神宮の神官・鹿島氏の四家老の一人である卜部(吉川)覚賢の子」なのに、実父の吉川覚賢から鹿島中古流を学んだそうですから、実父も剣の使い手だったようですし、回国修行の名分は「鹿島の剣を広める」ということでしたが、これは「神宮のお札や御神徳」を広めることとは関係なさそうだったので、鹿島神宮の神官と卜伝の剣の回国修行にはいったいどんな関係があるのか2011年にはとうとう最後まで分からないままだったのですが、ここにきてやっと分かってきました\(^o^)/。

 

卜伝は14891571年の人で、佐竹氏によって鹿島城が落城したのは1591年ですから、この鹿島氏は鹿島神宮の神官の「中臣姓鹿島氏」ではなく、当時一族で33の城を持ち、鹿島・行方の一帯を支配下に置いていた最盛期の鹿島城の城主だった「平姓鹿島氏」であり、上記の「鹿島氏の四家老」とは神宮の家老ではなく、尋常な規模ではなかったという鹿島城の家老であって、卜伝の実父の卜部(吉川)覚賢は神官ではなく、鹿島城の家老で武士だったのです。

 

この鹿島城の大手門は鹿島小学校前の交差点の付近にあり、本丸の跡地は、現在は鹿島城山公園、二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校になっていて、鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまであり、鹿島神宮の表参道である大町通りは当時は鹿島城内にあって、ここで流鏑馬がおこなわれていたそうで、城には二重、三重の掘があったそうです。本当に広大なお城だったのですね~。

 

鎌足の生誕地と伝わる鎌足神社はこの城山公園の南西にあります。

 

鎌足神社

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大職冠藤原公古宅址碑

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当時の剣はスポーツではなく人を殺す道具だったのですから、神官が剣の使い手だったということには違和感があって釈然としなかったのですが、実父の卜部(吉川)覚賢が鹿島城の家老で武士だったのであれば、鹿島中古流の剣の使い手であったことはおおいに納得できますね(^o^)

 

また、養子に行った先の塚原安幹が平氏だったというのも、塚原氏は常陸大掾氏(本姓・平)の一族の鹿島氏の分家なのですから当然で、剣豪・塚原卜伝は鹿島神宮や神官の中臣姓鹿島氏とは関係のない、武士の家に生まれた武士の子だったのです。

 

また、漫画やドラマでは武蔵が打ちかかった時、卜伝は囲炉裏にかかっていた鍋の蓋で防いだということになっていたので、卜伝は一部屋しかない小屋のような家に住んで自分で食事を作るようなつましい暮らしをしていた人だったのだと思っていたのですが、これも作家(?)の創りだしたフィクションにすっかり騙されていたようです。

 

養子先の塚原安幹は鹿島城主・鹿島氏の分家で、所領34千石の塚原城の城主であり、跡継ぎがいなかったため家老・吉川覚賢の次男の朝孝(卜伝)を養子にしたのだそうで、名を高幹と改めた卜伝は鹿島・行方にあった大掾氏一族の33館の城のうちの塚原の城主の跡取りになっていたのですから、小屋暮らしなどしていたはずはありませんよね(^_-)

 

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