2017.4.24 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?8
pcat2sさま。「塚原城址」は鹿嶋市にあったのですね(^o^)。塚原という地名を探していて、「塚原古墳群」というものがあることは分かったのですが、昨日はその古墳群のある場所までは分かりませんでした<(_ _)>。古墳群があるのは現在の「沼尾」だったのですか。
さっそく地図で沼尾を見てみると、「塚原卜伝の墓」がありました。城主のお墓が何の縁もゆかりもない場所に造られたはずはありませんから、沼尾に塚原城があって卜伝が住んでいた可能性は高いようです\(^o^)/。
でも、沼尾は鹿島城の近くなので、そこは鹿島城主の領地だったのではないか?とちょっと疑問に思いました。城主の収入はその領地からの上がりですから、領地を増やし、それを守るために「一所懸命」命懸けで戦い、それを減らさないために長男を「総領息子」として、次男以下を養子に出したり出家させたりしていたのに、自分の城の足下の土地を3~4千石も割いて跡継ぎ以外の者に与え、眼と鼻の先に新しい城を造らせたりしただろうか?と違和感があったのです。それでは、わざわざ身内同士の領地争いのタネを作り出すようなものではないか?と。
そのこともあったので、ひょっとすると塚原城は鹿嶋ではなく行方にあったのかもしれないと考えたのですが、沼尾に「塚原城址」があり、卜伝の墓があるのであれば、やはり塚原城は沼尾にあったのでしょうね。
それでは、塚原城はなぜ鹿島城のすぐ近くに造られたのか、塚原城の3~4000石という領地はどこにあったのか?と考えていて、古代には台地の下は海だったことを思い出しました(^o^)。
ちょうど源義光や平国香が常陸介や上総介となって下向してきた頃に、海面が下がった跡が広大な湿地となっていて、それを開墾することで義光や国香は開墾地主となって大きな財力を持つようになり、任期が終わっても都へは帰らずに土着し、その子孫たちも次々に開墾地主として支配地を広げていたのです。そしてその土地を守るために武士が生まれたのですよね。
↑の航空写真の塚原と北浦の間のかつては海であり、当時は湿地になっていた現在の水田地帯を水戸の吉田郷から進出して来て初代鹿島氏となった吉田成幹(鹿島三郎)から数代後の安重が開墾して塚原城主になったのではないでしょうか。古墳群があったということは、そこは海に面した高台だったと思われますから、そこに城と墓が作られたのではないかと思います(^o^)。
水田地帯は海抜5mくらいで、「沼尾」の台地は30~40mくらいであり、卜伝の墓は20m位のところにあるようです。「沼尾」は海の跡の沼や湿地が尽きる台地の裾の地名で、当時台地の上は塚(古墳群)のある原で「塚原」と呼ばれていたのかもしれません。各地の大塚・赤塚などの「○○塚」や、塚本・塚原・塚田などの「塚○○」の地名は、塚の存在に由来するもののようですから(^o^)。
現在は水田も台地も陸地になっていますから、その一帯がすべて「沼尾」と呼ばれるようになっているのかもしれませんね。私は現地を見ていませんし、その地域の資料で確かめたわけでもありませんから、これは航空写真や地図や地名や『記紀』『常陸国風土記』の記述などからの推理で、確認はしていないのですが(^_-)。