2017.4.20 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?4
鴨大神御子神主玉神社の石碑には「中臣連」と刻まれていましたから、中臣氏は「臣」でも「朝臣」でもなく、国津族の「連」だったのです。「藤原氏」は朝臣ですが、「藤原氏」になったのは不比等だけで、それも鎌足の死後かなり経ってからであって、鎌足は「藤原氏」にはなっていませんから、天智天皇から鎌足に与えられた姓は「藤原」ではなく臣(天津族の王族)に準ずる扱いをするという意味の「中臣」のカバネだったのだろうと思います(^o^)。
天皇家に生まれなければ天皇にはなれない、臣(天津族の王族)の家に生まれなければ臣にはなれないというのが「身分制度」というものであって、カバネが「臣」か「連」かは、純粋に血統(天津族の王族の血筋なのか国津族の王族の血筋なのか)によって決まっていたのですから、もし不比等が国津族の鎌足の実子であったなら、「朝臣」にはなれなかったはずですが、不比等の子孫は天津族の王族の血筋であることを示す「藤原朝臣」なのですから、不比等は国津族の鎌足の実子ではなかったのです。
鎌足の子孫のうちで不比等の子孫だけが「藤原朝臣」になることができ、その他の子孫は「中臣連」のままであったのは血統(出自)が違うからであって、実に論理的で根拠がはっきりしているのです。なぜならそこを崩してしまっては「身分制度」は成り立たなくなってしまうのですから(^o^)。
ところで話は変わりますが、2011年に鹿島に出かけた時、地図に「塚原卜伝生家」があったので、「あれ?塚原卜伝って鹿島の生まれだったのか?それなら宮本武蔵も鹿島に来たことがあるのかな?」と考えて調べてみたのですが、武蔵が生まれたのは卜伝が亡くなった後であることが分かりました。
卜伝に関する私の知識は漫画かドラマで見た武蔵と卜伝の鍋蓋対決のシーンだけだったのですが、その唯一の知識であるエピソードは完全なフィクションだったのですね(^o^)。
武蔵と卜伝の鍋蓋対決にしても、安宅関にしても、櫻井駅にしても、人口に膾炙して私たちが「歴史」だと信じているものの多くはフィクションとイリュージョンのようです。そもそも正史とされている『記紀』からしてフィクションとイリュージョンのオンパレードなのですものね~<(_ _)>。
事実はないのに史蹟はある櫻井駅
奥州に向かった義経が通ったはずのない場所にあった史蹟・安宅関