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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?3

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2017.4.19 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?3

 

2011年に鹿島氏と中臣氏の関係を調べてみた時、「大宮司家鹿島氏参考系図」というものが見つかったのですが、そこには「鎌倉時代になると、常陸平氏大掾氏の一族鹿島氏が、鹿島神宮で頼朝から社領の寄進を受け、やがて大宮司の大中臣氏を圧倒して鹿島神宮を実質的に支配するにいたった。以後、平氏系鹿島氏は神事を司りながら、武士としても兵馬の権をもち、鹿島を中心に勢力を振るった。しかし、戦国末期にいたって、佐竹氏の手によって滅亡した。その後は、さきの中臣鹿島氏が大宮司職となり神事を司った。」と記されていました。

 

これによれば、鎌倉時代には常陸大掾氏の一族の鹿島氏が武家でありながら大中臣氏から大宮司職を奪って神事も司っていたが、この鹿島氏が戦国末期に佐竹氏に滅ぼされてしまったので中臣姓鹿島氏が大宮司職を取り戻したということのようです。つまり大宮司は大中臣氏(鎌倉時代まで)→平姓鹿島氏(鎌倉時代~戦国末期)→中臣姓鹿島氏(戦国末期以降)と代わっていたということのようですね。

 

けれど、平姓鹿島氏が佐竹氏に滅ぼされたのは1591年で、鎌倉時代には「鹿島城主」として絶大な力をふるっていたのですから、鹿島神宮を支配していたとすれば城主としてであって、武家の城主が大宮司を兼ねて神事を司ったりしていたはずはありません。

 

「本姓・平」の常陸大掾氏の一族で鹿島・行方地方を支配していた鹿島氏と「本姓・中臣」で鹿島神宮の神領を支配していた中臣氏が、同じ支配地の地名を冠して「鹿島の○○」と名乗っていたために混乱や混同が生じ、武家の平姓鹿島氏が大宮司として神事を司っていたというような誤解が生まれたのかもしれませんね(^o^)

 

ひょっとすると城主の鹿島氏が、庶子の娘や息子を鹿島神宮に嫁がせたり、婿や養子に入れたりして実質的に支配していたということかもしれませんが(^_-)。城主からそういう話を持ちかけられたら断ることなどできなかったでしょうから(^_-)

 

平姓鹿島氏が1591年に佐竹氏に滅ぼされ、慶長の初めに鹿島義幹の外曾孫の国分胤光が鹿島氏を再興した後、この武家の鹿島氏は地頭となったようですから、こちらの鹿島氏も大宮司を兼ねたりはしなかっただろうと思います。「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれるように、武家の地頭は神官より身分も権限もずっと上だったようですから(^o^)

 

常陸大掾氏(本姓・平)の子孫で武家であった「平姓鹿島氏」は、鹿島城主だった時も、地頭だった時も、鹿島神宮の神職や大宮司になったことはなく、鹿島神宮の宮司や神職は、4世紀末の崇神天皇の東征の時から昭和32年まで、ずっと「中臣連」のカバネを持つ鎌足の一族(社家)だったのではないでしょうか(^o^) 

 


ネコビタイ便り 

赤い小さな原種のチューリップも咲き始めました。ずっと寒くて急に暑くなったので、早春の花から初夏の花まで入り乱れて咲いているようです。

イメージ 1

 

街路樹のベニバナトキワマンサクとハナミズキの花が目立つようになってきました。

 

お隣からタネが飛んできたらしい紫のオダマキがたくさん花を付けています\(^o^)/。

イメージ 2

 

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