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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?2

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2017.4.18 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?2
 
鹿島神宮の宮司は古代から昭和までずっと鎌足の一族の中臣氏だったのか、慶長年間に常陸大掾一族(本姓・平)の鹿島氏に代わっていたのか、中臣氏と鹿島氏はどういう関係だったのかがよく分からないので、鹿島氏について調べてみたところ、鹿島氏には
 
平姓鹿島氏(たいらせいかしまし):常陸大掾氏(平氏)の分家であり、常陸国鹿島の有力な武家(軍事貴族)で在庁官人となった。中世以降、地頭として鹿島神宮惣大行事職を世襲した。
中臣姓鹿島氏(なかとみせいかしまし):鹿島神宮の社家であり、大宮司職を世襲した。
 
の二系統があることが分かりました。実は、2011年にこのことは調べたのですが、まだ知識が足りなくて鹿島に二系統の鹿島氏がある理由や、この二系統間の関係を論理的に理解することができなかったので、そのうちよく考えてみようと保留にしてすっかり忘れていました(^_^.)
 
鴨大神御子神主玉神社の境内にあった石碑を見た時、いつか解読できるかもしれないと思って写真を撮っておいたのですが、ここにきてその繋がりがはっきりしてきたので、やっと2011年には読み取ることのできなかった石碑の「中臣○○連」の○○の部分の文字が「鹿島」という文字であることが分かったのです\(^o^)/。
 
境内にあった石碑
イメージ 1

 
この石碑は全体に字が薄くなっていて読み取りにくかったのですが、本文には康平6年・応永21年・永禄12年に修復されたことや、源頼義が北伐の際に戦勝祈願をしたこと、明治12年に郷社になったことなどが記されていて、最後に
 
昭和31年の修復に際して由緒を記して之を建つ 
昭和32317
茨城県神社庁 庁長
宮司 中臣○○連瑞比古撰 
 
と記されていたので、○○は読めませんでしたが昭和32年の鹿島神宮の宮司は中臣氏で茨城県神社庁の庁長だったことと、中臣氏のカバネは「連」であったことは分かりました(^o^)
 
鎌足の一族の「中臣連」は、ここでは地名を冠して「中臣連 鹿島の○○」と名乗っていたということでしょうか(^o^)。中臣氏の子孫は鹿島だけではなく、奈良や大阪などあちこちにいたはずですから。
 
この石碑を建てた昭和32年の宮司さんは「鹿島の瑞比古」氏だったのか、明治8年に「鹿島」を姓にして「鹿島瑞比古」氏になっていたのか、どちらでしょうね?




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