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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?

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2017.4.17 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?

 

『古事記』は、「天津族が大国主・ナガスネヒコを倒してヤマトを征服し東国を平定した後、鹿島でタケミカヅチに味方した鎌足の祖の大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつのみこと)に鹿島を神領として与えて沢山の品々と共に鹿島に帰し、大中臣神聞勝命は鹿島の祭祀者になった」と記していますし、鹿島神宮の由緒も同様のことを記しています。

 

鎌足の代では、クーデター・乙巳の変(大化の改新)への論功行賞として鹿島神宮は天智天皇からさらに多くの神領を与えられ、20年毎の社殿の建て替えと毎年の奉幣使(鹿島使い)による奉幣を朝廷から受けていたことが『常陸国風土記』に記されていますし、2010年に行った勝田市(現・ひたちなか市)の武田氏館には、中世には中臣氏が常陸で武田氏(源義光の子孫)や吉田氏(平)と領地争いをしていたことが記されていました。

 

資料を展示している武田氏館

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また鹿島に出かける少し前に行った茨城県桜川市加茂部の鴨大神御子神主玉神社の境内にあった石碑の碑文には「昭和32年3月17日 茨城県神社庁庁長 宮司中臣○○連○比古撰」という文字が刻まれていたので、私は、東征時から昭和まで鹿島神宮の宮司はずっと中臣氏だったのだと思っていました。(○○の部分は薄くて読み取れなかったのですが)

 

鴨大神御子神主玉 (かものおおかみのみこがみのぬしたま)神社

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境内の石碑

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ところが鹿島城址の碑文には、「鹿島義幹の外曾孫の国分胤光に鹿島氏を継がせ、大宮司並びに神宮の神職につかせた」記されていました。それでは鹿島神宮の大宮司は、慶長の初めに鎌足の子孫の中臣氏から平氏の鹿島氏に代わっていて、「明治維新に際して鹿島氏が世襲職を廃された」時に再び中臣氏が大宮司に戻り、昭和32年には「中臣○○連○比古」氏が大宮司になっていたということなのでしょうか?

 

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