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中臣氏と豊臣氏

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2017.4.14 中臣氏と豊臣氏

 

常陸大掾の一族の吉田氏(本姓・平)→江戸氏(藤原)→佐竹氏(源)によって支配されてきた水戸は、佐竹氏が家康によって移封された後、水戸徳川家の支配地になったわけですが、「得川氏(源)」の系図を買って「本姓・源」になった家康は源氏でも平家でも藤原でもなかったようです(^o^)

 

水戸市元吉田の吉田城址

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これは昭和30年代の写真でしょうか?水田は、今はもう住宅地になってしまっているようです。
 

江戸氏・佐竹氏・徳川氏の水戸城址


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大手橋の右手の台地が徳川時代の二の丸・本丸

イメージ 3

 
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左手の三の丸にある藩校・講道館

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 調べてみると、家康は初め「本姓・藤原」を名乗っていたという説も多いようなのですが、もしそうであれば、源氏の系図を買わなくても任官されたはずですし、「本姓・源」になる工作を藤原北家の近衛前久に頼んだりはしなかったでしょうから、それは違うのではないかと私は思うのですが、本当のことは分かりませんね<(_ _)>
 

水戸の支配者になった徳川家は、「源・平・藤」ではなかったわけですが、近衛前久の猶子になって「本姓・藤原」となった秀吉も「源・平・藤」ではなかったのですよね。

 

松平家康は、得川氏の系図を買って「徳川家康」と名乗っていますが、近衛前久の猶子になって関白になった秀吉は、豊臣秀吉であって、近衛秀吉でも藤原秀吉でもないので、この「豊臣」とは何なのだろう?どこから出てきたのだろう?と疑問に思っていたのですが、秀吉は、表向きは「藤原朝臣・秀吉」として関白になった翌年、天皇から「豊臣」の姓を賜って近衛家から離れたのだそうです(^o^)

 

「臣」は「八色の姓(やくさのかばね)」制定以前の古代の天津族の王族のカバネであり、「朝臣」は「八色の姓」以降の王族のカバネですから、これはつまり、王族ではなかった秀吉に「臣」のカバネを与えることで、関白となって支配層に入る正当性を与えたということであり、秀吉は莫大な献上金を積んで王族の子孫の身分を買ったということなのではないでしょうか(^_-)

 

するとここでピンと来るのは中臣鎌足ですね(^o^)。クーデター・乙巳の変の一等功臣である鎌足は、茨木市の安威に領地を貰っていますが、「中臣」は地名ではありませんから、「中臣」とはいったい何なのだろう?とこれもずっと疑問に思っていました。

 

鎌足は内臣(内大臣)になっていますが、国津族で「連(むらじ)」だった鎌足は、天津族の朝廷で内大臣になることはできなかったはずですから、これはクーデター・乙巳の変での功績に対する論功行賞として内大臣の地位を与えるため、天智天皇が鎌足に「中臣」という王族の「臣」のカバネを与えたのではないでしょうか(^o^)

 

「ナカトミ」と「トヨトミ」、王族ではなかった秀吉へのこの賜姓は、鎌足の前例に倣ったということかもしれません(^_-)。支配階級というのは、有職故実だとか、前例だとか、差別化するために自分たちが作ったしきたりだとかにやたらとうるさい人たちのようですから(^_-)

 
鎌足は、死の前日の天智天皇8年(669年)1015日に大織冠を授けられたそうですが、大織冠を授けられたのは鎌足だけだそうですから、これは鎌足のために特別に作ったものだったのかもしれません。このクーデターの成功がなければ、中大兄もその子孫も絶対に天皇にはなれなかったのですから。



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