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正親町天皇と賜姓

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2017.4.15 正親町天皇と賜姓
 
羽柴秀吉は、いつ豊臣秀吉になったのだろう?と調べてみたら、1586年に正親町天皇が秀吉に「豊臣」の姓を与えたのだそうですが、この天皇は、つい先日司馬遼太郎著『歴史と視点』の中の「人間が神になる話」で見た、出自が定かではない本願寺の顕如に1559年に「門跡(親王または五摂家の出自)の資格」を売った天皇ですね(^_^.)
 
この「人間が神になる話」によれば、先代の後奈良天皇以来天皇家は貧窮をきわめていて、正親町天皇は帝位に就きながら7年間も即位式をあげることができなかったのだそうです。そういえば、信長も1566年に正親町天皇から御料所の回復と誠仁親王の元服費用の拠出を求められ、1569年には「信長を副将軍に任命したい(資格を売りたい)」という打診があったようですが(^o^)
 
司馬氏はこの作品に「それまでもこの後も、日本の宮廷が親王や公家の資格を金で売ったことなどなかった。正親町天皇の貧窮がいかにすさまじかったかが察せられるであろう」と記されていましたが、その後にも、1569年の信長には無視されてしまいましたが、1586年に秀吉に「公家の資格」を売ったようです(^_^.)
 
信長は「神の子孫の資格」を買う代わりに「自分が神になる」と言ったようですが、顕如と秀吉は正親町天皇から資格を買って「神の子孫」になったのですね(^_-)。「神の子孫」になった秀吉は一代限りで滅んでしまいましたが、顕如の子孫は江戸時代にはずっと神の子孫の「ご門跡さま」であり続け、明治維新後は大谷伯爵となって神の子孫を続けていたようです。
 
この「大谷」という姓はどこから出てきたのだろう?と調べてみたら、「浄土真宗の一派である本願寺の法主を世襲によって継承した覚如(親鸞の曾孫)の子孫の家号」だったのだそうで、明治時代に名字必称となった時に、この屋号を姓として用いることにしたのだそうです。「ご門跡さま」として「神の子孫」になってはいましたが、領主や城主のような支配者ではなかったので、親鸞の子孫たちには明治8年まで姓はなかったのですね。
 
「本願寺○○」と書かれたものはあっても、本願寺法主(門主)の家系が「本願寺」を家の名字・姓としたことはなく、「本願寺氏」という氏が存在したこともないそうです。
 
それでは、この屋号の「大谷」は何に由来するのかというと、親鸞の廟堂が京都東山知恩院北門の大谷の地にあったからだそうですから、やはり地名だったのですね(^o^)
 
wikipediaによれば、
 
大谷には「豅」(読みは「ロウ」、意味は「長大な谷」、転じて「おおたに」「ながたに」と訓ずる)の字が充てられたこともあり、後に本願寺は「豅山」(おおたにざん)を山号とした。現在の西本願寺は「豅」の字を分かち、龍谷山本願寺(りゅうこくざんほんがんじ)と号している。龍谷大学の校名の由来でもある。
 
だそうで、龍谷大学の名前は地名の「豅」を分解したものだったのです。名前には何かしら根拠があるのですよね(^o^)
 
 
ネコビタイ便り
 
一茎に二つずつ花を付ける原種の小さなチューリップが咲き始めました(^o^)
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もうすっかり花の終わったバイモには、ギザギザの緑色の実がたくさんついています。
イメージ 2
 
バイモの別名の「編笠百合」や、学名のFritillariaは花の形に由来するものですが、バイモ(貝母)って何だろう?どこが貝に似ているのだろう?と調べてみたら、球根(鱗茎)を乾燥させた形が二枚貝の殻に似ているのだそうです。球根は見たことがなかったので全く思いつきませんでした(^o^)
 

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