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鹿島氏・行方氏

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2017.4.13 鹿島氏・行方氏

 

水戸へ支配を広げた5代目常陸大掾平致幹の弟の清幹は吉田郷を領して「吉田氏」となり、その3人の息子は長男が吉田郷を継ぎ、次男は行方、三男は鹿島に移って「行方氏」「鹿島氏」になったようです。

 

清幹(吉田氏)―盛幹(吉田太郎)

       |-忠幹(行方次郎)

       |―成幹(鹿島三郎)

 

この「鹿島氏」「行方氏」に、私は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を出す直前の20119月に「鹿島の神が鹿の背に乗って春日大社に向かって発った」という「跡の宮」の場所を確かめに行った鹿島で偶然に遭遇していました(^o^)

 

鹿嶋市神野の「跡の宮」

イメージ 1

 
イメージ 2

「跡の宮」については第5章「藤原氏の祖廟・春日大社と鹿島神宮を推理する」をご参照ください。

 

旅立つことを意味する「鹿島立ち」は、一般には鹿島の神が「鹿島神宮」から奈良に発ったことに由来するとされているようですが、地元には「鹿島の神」は神宮からではなく「跡の宮」から発ったことがちゃんと伝わっていました(^o^)

 

この時「跡の宮」の近くの城山公園に城跡があることを知って、誰のお城だったのだろう?と興味津々で行ってみました。当時鹿島については、鹿島神宮とアントラーズ以外のことは何も知らなかったので(^_^.)

 

城跡には、「大掾氏族の鹿島氏の居城だった鹿島城」と記されていたのですが、当時は、説明を読んでも意味がよく分かりませんでした<(_ _)>。でも大掾氏と関係があるらしいことが分かったので、後で考えてみることにして写真を撮っておいたのですが、今になってやっと全部が繋がって来たようです(^o^)

 
イメージ 3

イメージ 4

右の緑色のところが鹿島城の本丸跡の城山公園で、「跡の宮」は神野4丁目にあり、鎌足の生誕地に造られたという「鎌足神社」は城山の近くにありました(^o^)


この鹿島氏とは、5代目常陸大掾平致幹の弟の清幹の三男の平成幹の子孫なのですが、戦国時代の鹿島氏は鹿島・行方に広大な領地を持って、勢力をふるっていたそうで、この地方の三十三館の城はおおむねこの一族のものだったそうです。


イメージ 5

鹿島城は中世の城郭としては尋常な規模ではなかったそうで、↑の碑文によれば、これを嫉んだ佐竹義宣が秀吉に中傷し、鹿島と行方の城主を常陸太田に呼び寄せて全員を殺してしまったそうで、1591年に鹿島城は落城し、1181年から411年続いた歴史を閉じたのだそうです(T_T)

 

ここには「ああ、常陸平氏は、一族をあげて、佐竹氏の凶暴な刃にかかった」と記されていますが、常陸大掾氏だった筑波の多気氏(平)は、頼朝(源)・小田(藤原)に、水戸の吉田氏(平)は江戸氏(藤原)に、大掾を継いで石岡に移った馬場氏(平)・鹿島の鹿島氏(平)・行方の行方氏(平)は佐竹氏(源)に滅ぼされてしまったわけですね<(_ _)>。カッコ内は本姓(=出自)

 

こうして見ると、記録に残っているのは源氏・平氏・藤原氏ばかりですから、確かに日本人には源氏・平氏・藤原氏の子孫しかいないように見えますが(^o^)、これはみな庶民ではなく領主や城主、つまり征服者・天津族の王族の血を引く支配層の人たちであって、支配層は全てその人達が占めていたということであり、それ以外の日本人は源でも平でも藤原でもなかったのです。

 
 

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