2017.2.25 宇佐神宮27 権力が大好きな宇佐の神様3
2012年に行ってみた石清水八幡宮はとても大きくて立派な神社でしたが、そこは三川が合流する地点で、川向こうには天下分け目の天王山があり、古くから京都・大阪・奈良を結ぶ陸上・水上交通の要衝で、政治・経済・軍事上の最重要地点だったそうです。
石清水八幡
この低地は、京都盆地の西辺の西山山系の南端と東の男山とのあいだの地峡となっていて、現在この地峡では、桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、川の流れに沿って、右岸には東海道本線、東海道新幹線、阪急京都線、国道171号(旧西国街道)が、左岸には京阪本線、旧国道1号線(現・府道13号京都守口線、旧京街道)が走り、かつて水上交通路であった川(古代には海)を含めて、京阪間のほぼすべての交通路がここを通っていて、京都府側には名神高速道路の大山崎JCT・ICがあり、名神高速道路のバイパス機能を持つ京滋バイパスが宇治・滋賀(名神瀬田東JCT)方面へと分岐しているのだそうです。
それでは、古代から現在までずっと、政治・経済・軍事上の要衝だったこの地に八幡神を出張させ(勧請し)てこの地を押さえた「機を見るに敏」だった人はいったい誰だったのだろう?と思ったら、石清水の由緒にちゃんと書いてありました。
由緒
八幡神を石清水に勧請したのは、南都・大安寺の僧・行教だそうです。それでは、カミサマを担いでこの最重要地点を押さえた「権力や状況を見るに敏」だったのは坊さんだったのですね(^o^)。そういえば、戦国時代にあれこれと機を見て策を立てたり交渉したり折衝したりしていたのは安国寺恵瓊のような僧だったような・・・・・
古代史の謎解きを始めるまでは「宗教は平和と人類を救うためにある」という建前を信じていた私は、戦の場面で坊さんが出てくるのは和平交渉のためなのかな?と思っていたのですが、全く違っていたようで、一番機を見るに敏で世俗的だったのは神職や僧だったようです<(_ _)>。
当時の神職や僧は支配者層の子弟であって、学問を身につけることができ、血統上の身分もお金もある高等遊民だったのですから、機を見るに敏で、策を立てて常に権力のある所に出て行くことができたわけですよね。
ところで安国寺恵瓊ってどんな人だったのかな?と調べてみたら、「天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した」のだそうですから、やはり支配者層の子弟であって、志があって出家したわけではなく、生き延びるための便宜として出家したということのようですね。
八幡神が国家神として飛躍する第一歩は、東大寺の大仏建立の時に「大仏に必要な金は必ず東国より出る」と告げ、その託宣通りに陸奥から金が出たので、宇佐神宮はその功績を認められて多くの位田や封戸を与えられたのだそうですから、この頃の八幡神は宇佐神宮にとっては富をもたらしてくれる打出の小槌のような「金運のカミサマ」だったようです。
↑の記事には「和気公にしても東大寺大仏の時にも、裏には非常に政治的なドロドロしたものがあったでしょうね。(ご託宣も)一歩間違うと大変でした」との宮司さんの言葉も載っていたのですが、機を見るに敏だった宇佐神宮の方々は、いずれの時もその時々の権力者の気に入るようなご託宣を作ってその「政治的なドロドロ」をうまく利用してきたようで、最盛時の宇佐神宮は、実に九州の三分の一にも及ぶ荘園を領していたのだそうです(^_^.)。