2017.2.23 宇佐神宮25 権力が大好きな宇佐の神様
↑の2012年の記事には、宇佐市観光協会専務理事さんの「宇佐の神様はおもしろい神様で、最大の特徴は言葉を発することです」というお話が載っていたのですが、宇佐の神様は、自ら託宣を出してきわめて政治的な動きをする神様なのだそうです。
でも実体のないカミサマが実際に言葉を発したり政治的な動きをしたりするはずはありませんから(^o^)、神託を受けたとして託宣を作り、政治的な動きをしていたのは、「八幡神」という神を作り出し、それを「応神天皇」に仕立てたり、仏教が優勢になると今度は八幡神を「八幡大菩薩」という仏に仕立てたりしていた目端のきく人たちだったのではないでしょうか(^_-)。
さらにこの専務理事さんのお話によれば、この宇佐の神様は桓武天皇が奈良から京都に遷都した際には「吾、都近き石清水男山の嶺に移座して国家を鎮護せん」と言って、みずから石清水八幡宮に出張していき、京都がダメだと思うと鎌倉幕府の鶴岡八幡宮に出張していくという具合に、「常に権力のお膝元に出て行く神様で、状況を見るに敏というか、地域の産土神とは違ってどんどん動いて行く神様で、まるで細胞分裂をするかのように、九州から近畿、関東・東北へと増殖していった」のだそうです(^o^)。
そういえば、江戸城の近くにも市谷亀岡八幡宮がありますが、鎌倉がダメになるとこのカミサマは江戸に出張したのでしょうか。本当に権力のある所にはどこにでも出張して行くカミサマのようですね(^o^)。
でもこれは、カミサマがみずから出張して行ったわけではなく、目端の効く人がこのカミサマを担いで常に権力の傍に出て行っていたということなのでしょうね(^_-)。
石清水も鶴岡も亀岡も、いずれも立派な神社でしたが、このカミサマがあちこちに出張して行って、自ら大工仕事をして自分が収まる社殿を造ったわけではないでしょうから、権力が大好きで、常に権力のある所に立派な社殿を造っていたのは、実体のないカミサマではなくてやはりニンゲンですよね(^o^)。
石清水から鎌倉に八幡神を勧請したのは源頼義で、鶴岡八幡宮を造ったのは源頼朝、鎌倉から江戸に勧請したのは太田道灌だったそうですが、市谷亀岡八幡宮は、当初市谷御門の中に造られていたものが戦火などで荒廃してしまったため、寛永13年(1636年)頃に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転されたのだそうで、ここには元は茶ノ木稲荷神社という神社があったのだそうです。
茶ノ木稲荷神社は、現在は亀岡八幡宮の境内社になっているそうですから、お稲荷さんは軒を貸して母屋を取られてしまったようですね(^_-)。
この神社では、荒廃していた間に祭神が分からなくなってしまったのか(?)、現在の祭神は、誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神だそうです。八幡宮だから祭神は八幡神=誉田別命=応神天皇なのでしょうけれど、気長足姫尊、与登比売神って誰なのでしょうね?気長足姫尊は息長帯比売命で、神功皇后のことのようですが、与登比売神が誰なのか分かりませんでした<(_ _)>。神社では「与登比売神は応神天皇姫(妃)」だとしているようですが。
いずれにしても全国に4万社以上もあるという八幡宮(神社)は、「細胞分裂をするかのように増殖していった」神社であって、子孫が祖先を祀るために造った祖廟ではないわけですから、祭神はそれらしい名前であれば誰でもいいということでしょうか(^_-)。
ネコビタイ便り
日曜日の暖かさで黄色くなってきていたサンシュユが咲き始めました。今朝の雨は催花雨でしたね(^o^)。
バイモにも蕾が出てきて、クリスマスローズも咲き始めています(^o^)。