Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

宇佐神宮22 欽明天皇と八幡宮

$
0
0
2017.2.21 宇佐神宮22 欽明天皇と八幡宮 
 
弟を殺したと言えば、3代将軍・家光も弟の忠長を自刃させたとされているようですが、権力の世襲ということは、その血統に連なる人は近ければ近いほど自分の地位への脅威になるということのようですね<(_ _)>
 
そこに親への孝養を説く儒教の考え方や「恨(はん)の文化」が絡んでくると、殺された親の無念を晴らさなければならないという「大義名分」が加わって更なる脅威を感じることになるのでしょうから、今までのやり方から推して、当人がそのように考えているかどうかとは関係なく、次に狙われるのはジョンナム氏の息子さんだということになるのでしょうね<(_ _)>。実際にそんなことが起きなければいいのですが・・・・・
 
ここで宇佐神宮の続きに戻ることにします。
 
「八幡大神が欽明天皇の御代の571年に宇佐に示現して誉田天皇と名乗った」という宇佐神宮の由緒は完全な作り話のようですが、
その頃、応神天皇の孫の欽明天皇は、応神天皇を宇佐ではなく和歌山に祀っていました(^o^)
 
紀伊國には、磯城で即位した孫の欽明天皇の勅命によって、562年に応神天皇の頓宮の跡に応神天皇を祀る芝原八幡宮が造られたそうですが、この芝原八幡宮は1585年の秀吉の紀州侵攻時に焼失してしまったそうで、現在は大国主を祀っていた木本神社と合祀されて、木本八幡宮になっています。
 
木本八幡宮
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 
『古事記』の「神武の東征」や「三韓征伐を終えた神功皇后のヤマトへの凱旋」のオハナシの記述から、(八咫烏に案内された東征軍の)天津族も、(神功皇后や武内宿禰に連れられた)応神天皇も、紀ノ川を遡ってヤマトに入ったに違いないと考えたので、その推理の裏を取るために2011年の夏に紀ノ川の河口から川沿いに奈良まで遡ってみたのですが(^o^)、紀伊國には東征以前の歴代の大国主の痕跡も、天津族の東征の痕跡も、応神天皇の痕跡もたくさん残っていて、それまでの推理が間違っていなかったことを確かめることができました\(^o^)/。
 
この辺りの『記紀』の記述はウソだらけなのですよね(^_-)。神功皇后は架空の人物で、応神天皇は神功皇后が産んだ赤子ではありませんし、300年以上も生きていて、第12代から第16代までの景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたというバケモノのような武内宿禰という人もいません(^o^)。景行・成務・仲哀・仁徳の4人は架空の天皇で、実在したのは応神天皇だけですから、武内宿禰は、応神系の人々の総称のようです。
 
武内宿禰を祖とすると記されている「蘇我氏、巨勢氏(巨瀬・許勢)、紀氏、平群氏、葛城氏、波多氏、阿部氏の有力7氏族」というのは、応神天皇の派閥に属する氏族のことであろうと思います。蘇我氏は応神天皇の子孫そのものですし、波多氏は応神天皇と深い関係を持っていた秦氏のことですから(^o^)
 
また、「名草戸畔とは学者さんたちが言っているような「女酋長」ではないのではないかと考えた2010年の推理を確かめることができたのもこの探訪の時でした(^o^)

名草彦・名草姫を祀る中言神社
イメージ 4




Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles