2017.2.12 宇佐神宮15 道鏡と弓削
宇佐神宮神託事件の主人公である道鏡の出身地は弓削であり、道鏡はその地名を冠する「弓削の道鏡」であって、いつでも天皇の側近くにいることができたばかりではなく、皇嗣に名を挙げられ、称徳天皇と恋愛関係にあったとまで記されているのですから(これは真っ赤なウソだということが分かりましたが)得体の知れない怪僧などではなく、弓削を領地とする王族だったのです。
身分の上下が無くなったはずの今でさえ、一般人の僧が自由に皇居に出入りして天皇に近づいたりすることなどできませんよね。限られた人しか近づくことができないのが「権威」というものであり、だからこそ「近づくことができる人」も権威を持てるという仕組みになっているのですから(^o^)。
その一点だけを見ても道鏡の出自が庶民だったはずはないのですが(^_-)、得体の知れない怪僧どころか、道鏡は当時最高の教育を受けることのできたエリート中のエリートの身分だったのです。
弓削道鏡は、その出身地や宮中に出入りできる身分であったことなどからみて、天武天皇の皇子の弓削皇子(ゆげのみこ)の息子だったと思われますから、称徳天皇(安倍内親王)と道鏡にとっての皇祖は、架空のアマテラスではなく464年に王位に就いた応神天皇だったのです。
ですから「皇嗣について神意を問う」のであれば、藤原氏が造った「架空のアマテラスを祀る伊勢神宮」ではなく、聖武天皇が造った「応神天皇を祀る宇佐神宮」に使者を送ったのは当然で、謎どころか非常に論理的な行動だったわけですね(^_-)。
その弓削とはどの辺りにあるのかというと、八尾空港の東隣にその地名があるのですが、ここには弓削氏の氏神を祀る祖廟・弓削神社があり、由義神社は由義宮(ゆげのみや)の跡地と伝わっているそうですし、弓削氏の氏寺の由義寺もあったそうですから、その一帯のことのようですが、そこがどんな所なのかはまだ行ったことがないので分かりません<(_ _)>。
2012年の大阪探訪は、応神天皇とその子孫の応神系王族(石川氏)が本拠としていた石川流域と高向(たこう・学者さんたちはこれを「たかむく」と読んで新潟の継体天皇の出身地だとしていますが)を訪ねることが主目的だったのですが、この時石川に架けられた玉手橋で、称徳天皇が由義宮へ行幸し、ここで称徳天皇に奉献する歌垣や曲水の宴が開催されたことを初めて知ったのです。
玉手橋
そのことを知っていればもちろん行ってみたのですが、2012年にはまだ弓削については何も知らなかったのですよね<(_ _)>。この橋を通りかかったのも実は偶然で、玉手山にあるという古墳に行こうとしていたのですが、道が分からなくて古墳には辿りつけなかったのです(T_T)。
でもここでこの歌垣のことを知ったおかげで、「歌垣」は学者さんたちが常識のように言っているようなものではないということを確信できたのですが(^o^)。