20172.6 宇佐神宮10 応神天皇と秦氏3
秦河勝の墓があるというので2012年に行ってみた川勝町は、(墓の周辺しか見ていないのですが)起伏が激しくて急坂や階段や行き止まりが多い↓のような地形で、
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大きな邸宅を造るには向かない地形のようでしたし、「太秦」という地名から考えても、秦氏の「氏の長」の住まいは対岸の太秦の丘の方だったと思われます。
河勝の墓と伝わっているものは五輪塔だったのですが、これは、以前からあったもっと大きな塔が豊臣秀吉の文禄堤築造の際に持ち去られてしまったため、1649年(慶安4年)に子孫が修復したものなのだそうです。
「伝・河勝の墓」とされている石造五輪塔
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元の塔の形は分からないのですが、もし以前のものも五輪塔であったならこれは本当の河勝の墓ではないでしょう。石造五輪塔が造られるようになったのは鎌倉時代以降なのですが、河勝は古墳が造られていた飛鳥時代(6~7世紀)の人なのですから(^o^)。河勝は、この後京都の太秦に本拠を移したようですから、河勝の本当のお墓は京都にあるのかもしれません。
五輪塔の北東側の方柱状の塔には「正六位上兼右近衛府生秦武文」と刻まれているそうですが、右近衛府は大同2年(807年)に作られた役職のようですから、河勝の子孫がこの石柱を建てたのは9世紀以降のようです。この人が1649年(慶安4年)に五輪塔を再建した子孫であるなら、1649年まで朝廷には右近衛府という役職があったということなのでしょうね。
「正六位上兼右近衛府生秦武文」と刻まれている石柱
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この時は残念ながら太秦へは行けなかったため、どんな所なのか実際に見ることはできなかったのですが(T_T)、山根街道(旧東高野街道)が太秦の丘の東麓を通っていたようで、航空写真を見ると、この街道の西側には旧讃良郡一之宮・高宮神社の元宮である大杜御祖神社と高宮廃寺跡のある広い杜が広がっていて、この杜の北東には「太秦高塚古墳公園」があります。
高宮廃寺跡の方に向かう山根街道の道標
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この太秦高塚古墳公園には、現在は全長39m、円丘部の直径37m、高さ7mの2段築盛の円墳一基があるだけだそうですが、寝屋川市東部の太秦高塚町・国守町とその周辺の丘陵では、古くから多数の円墳の存在が知られていたそうです。
これらのことから考えると、やはり太秦の丘の大杜御祖神社と高宮廃寺跡のある杜の辺りが秦氏の長の邸跡で、大杜御祖神社は秦氏の祖神(おやがみ)を祀っていた祖廟(氏神)、高宮寺は秦氏が造った氏寺、この丘の東側一帯の丘陵にかなりの数が存在したという古墳は秦氏一族の墓だったのではないかと思います。
出土した埴輪や土器などから、この太秦高塚古墳は5世紀の後半に築かれたと考えられるそうですから、ちょうど応神天皇の時代ですね。この古墳は、応神天皇が難波堀江や茨田堤などの大規模な土木工事をしていた頃の秦氏の「氏の長」の墓なのではないでしょうか(^o^)。
また、航空写真ではこの丘の北側の寝屋川に近い方に「熱田大明神」の杜が見えるのですが、その境内からは昔から古瓦が出土し、礎石(そせき)に使用されたとみられる巨石が多く認められていて、太秦廃寺跡とよばれているそうです。ここから出土した重圏文軒丸瓦(じゅうけんもんのきまるがわら)・唐草文軒平瓦(からくさもんのきひらがわら)は、奈良時代後期から平安時代前期のものだそうですから、こちらが国分寺造立に伴って廃された郡寺で、讃良郡の郡衙と郡寺は、水運の便の良かったこの丘の北側にあったのかもしれません。