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宇佐神宮9 応神天皇と秦氏2

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2017.2.4 宇佐神宮9 応神天皇と秦氏2

 

応神天皇が難波宮を本拠とした当時の秦氏は、上町台地の対岸の寝屋川市の太秦を本拠としていたようで、応神天皇の子孫(曾孫)であるアメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)の時代には、その当時の秦氏の氏の長であった秦河勝がアメノタリシヒコの政権を財政面・軍事面で支えていたようです。遣隋使のための船を出し、隋まで送り迎えしたのも秦氏だったのかもしれません。

 

去年の9月場所で、寝屋川市出身の豪栄道が全勝優勝したというニュースを聞きながら、私は2012年に行った寝屋川市の太秦のことを思い出していました(^o^)。京都の地名だと思い込んでいた「太秦」が大阪の寝屋川市にもあったことや、川勝町には秦河勝の墓と伝わるものがあることを知って、それでは川勝町は秦河勝の住まいがあったところなのではないかと考えたので2012年に探訪に行ってみたのです(^o^)

 

寝屋川市川勝町の「伝・秦河勝の墓」 

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川勝町に住んでいる人もこの墓のことを知らなかったのですが(^_^.)、寝屋川市出身の豪栄道は知っているかな~?

 

相撲といえば、このところ連日稀勢の里と出身地の話題が流れていましたから、マイナーだと言われた「茨城県牛久市」もかなり知られてきたかもしれませんね(^o^)。でも稀勢の里の出身地として牛久市と竜ケ崎市の二つの地名が出てきていたので、なぜだろう?ひょっとしたら市町村合併したのかな?と地図を調べてみたのですが(^_-)、そうではなくて稀勢の里の方が中学校の時に竜ヶ崎から牛久に引っ越していたのだそうです(^o^)

 

変だなとか、なぜだろう?とか思った時には調べてみると、「ああ、そういうことだったのか」と納得できる理由(因果関係)がちゃんとあるのです。学者さんの説で、因果関係が分からなくて納得できないところに「・・・と考えればよい」だとか「・・・とすればよい」だとか「私は・・・と考えたい」などと記されていたら、その解釈は事実とはかけ離れた「つじつま合わせ」かもしれないと思った方がいいようです(^_-)

 

川勝町と寝屋川を挟んだ対岸の太秦の丘には、高宮神社とその元宮の二つの式内社や高宮廃寺跡があってここには「讃良」と地名が表示されていましたから、「応神天皇の子孫の天武天皇」の皇后となった鸕野讚良(うののさらら)皇女の母はこの地で生まれ育った秦氏の一族だったのではないでしょうか。

 

式内・高宮神社 江戸時代には旧讃良郡一の大宮で「一の宮」と呼ばれていたそうです。


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 高宮廃寺跡 これは国分寺造立に伴って廃された郡寺であろうと思います。
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