2017.2.3 宇佐神宮8 応神天皇と秦氏
応神天皇と「はたた神」を祀っていた(?)秦氏の一族とはとても縁が深かったようです。
応神天皇の陵は、宮内庁や歴史学者さんたちが応神天皇陵だとしている古市古墳群の5世紀初頭に造られた誉田山古墳ではなく、百舌鳥古墳群の宮内庁や歴史学者さんたちが仁徳天皇陵だとしている6世紀初頭に造られた大仙古墳です。なぜなら仁徳天皇は『古事記』が創った架空の人物ですし、応神天皇が亡くなったのは5世紀初頭ではなく506年(6世紀初頭)なのですから(^o^)。
このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章をご参照ください。
「正史」は仁徳天皇を4世紀初めの天皇だとしていますから、大仙古墳が6世紀初頭に造られたものだということが分かってきた今は、宮内庁も歴史学者さんたちもこの古墳を「仁徳天皇陵」だと言い張ることはさすがにできないようで、誤った治定やウソの歴史を訂正する代わりに素知らぬ顔で「大仙古墳」と言い換えているようです(^o^)。
私はこの大仙古墳が大阪に造られていることや当時の地勢などから、当初石川流域を本拠地としていた余昆は、王(応神天皇)となってからは上町台地の「難波の宮」を本拠としたのではないかと考えたのですが、その頃応神天皇は、秦氏の協力を得て難波堀江の掘削などいくつもの大規模土木工事をしています。学者さんたちは、これらの土木工事は全て仁徳天皇の事績だとしていますが。
難波宮跡
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難波宮跡は大阪城のすぐ近くにありました。ここは、信長も秀吉も欲しがった地であり、今も大阪の中心です。
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前期の宮跡を学者さんたちは孝徳天皇の宮跡だとしているのですが、孝徳天皇は架空の天皇です。