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宇佐神宮7

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2017.2.2 宇佐神宮7

 

八幡については、「神功皇后が三韓征伐の時に八つの旗を祀ったことから八幡という言葉が生まれた」という説は論外なのでさらに調べてみると、

 

幡はサンスクリット語の patākā(パターカー)の音写で波多迦とも書き、平安時代の『倭名類聚抄』では「波多 (はた) 」と和訓する

 

という説がありました。架空の人物のありもしない行動から「八幡」という言葉が生まれたとする説よりはずっと納得できますね(^_-)。南無も菩薩も仏もサンスクリット語の音写なのですから、これらの言葉が入ってきた時、仏や菩薩の威徳を示す荘厳 (しょうごん)の一つとして用いられたというpatākāとその音写の幡も一緒に入ってきたのでしょうね(^o^)。百済の威徳王は、577年に仏教に関する全てのものをアメノタリシヒコに贈ったのですから。

 

当時の寺院には、この幡のための幢竿(どうかん・柱)が立てられていたようで、武蔵国国分尼寺からもその柱の跡が出ていました。

 

国分寺と国分尼寺 

イメージ 1

国分尼寺跡

イメージ 2

 

ちょっと見えにくいのですが、金堂の前に白っぽい柱が4本立っています。ここに幡がかけられて翻っていたようです 

イメージ 3

「幡」が仏教と共に入ってきたものなのであれば、『古事記』が記した「神功皇后」の時代の200270年には「幡」も「八幡」もまだ無かったはずですが、『古事記』が作られたのは仏教が盛んになっていた8世紀ですから、うっかりと書いてしまったのでしょうね(^_-)。「語るに落ちる」です(^o^)

 

このパターカーが八幡になったのかもしれませんが、奈良時代には「八幡神」はヤハタ神」と訓読みで呼ばれていて、「ハチマン」という音読みが登場したのはずっと後の事なのだそうです。戦勝を祈るのには「なむやはただいぼさつ」より「なむはちまんだいぼさつ」のほうが語呂が良かったということでしょうか(^o^)そういえば、頼家の子は一幡で、実朝の幼名は千幡でしたが、八幡にあやかったのかな?

 

それで思い出したのですが、以前「霹靂(はたた)神」というカミサマが出てきた時、このカミサマの正体が分からなかったのですが、もし八幡神が「ヤハタ神」と呼ばれていたのであれば、ひょっとすると「はたた神」というのは八幡神のことなのかもなのかもしれませんね。「はたた神」とは「雷神」のことだという学者さんの解釈に私は全く納得できなかったので、秦氏が祀っていたカミサマなのではないかと考えたのですが(^_-)

 

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