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宇佐神宮6

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2017.2.1 宇佐神宮6

 

由緒に「725(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。」と記されているということは、725年まで宇佐神宮はなかったということなのだろうか?とさらにH.Pを見てみると、

 

宇佐宮関係の史料によると、神亀2725)年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、東方の日足の地に弥勒禅院を建立しています。そして、天平9737)年には宇佐宮社殿の西に移し、天平10738)年に金堂・講堂を建立しました。この事業には聖武天皇の大きな援助がありました。

 

と記されていました。それでは聖武天皇が宇佐宮を725年にどこかからこの地に移して宇佐神宮を造るのと同時に弥勒寺も建てたということのようですね。なぜ「辛国(韓国)から来て日本の神になった」はずの八幡大神は「八幡大菩薩」というホトケサマになってしまったのだろう?」と疑問に思ったのですが、宇佐神宮は仏教に傾倒していた聖武天皇によって、725年に初めから弥勒寺とセットで造られたようですから、菩薩は本地として、八幡神はその仮の姿として作られたということなのでしょう。

 

現在では弥勒寺はなくなっていて、その境内だった所には神宮庁や参集殿が造られているそうですが、弥勒寺は明治の廃仏毀釈で壊されてしまったのでしょうか?現在の宇佐神宮が祀っているのは八幡大菩薩ではなく八幡大神ですから、カミが本地でホトケは仮の姿にすぎなかったということになっているのでしょうね(^_-)。「八幡大神」は、その時々の権力に合わせてカミになったりホトケになったりしてきたようです。

 

ところで「八幡」とはどういう意味なのだろう?と調べてみたら、

 

幡とは旗のことで、八幡は「八つの旗」を意味し、神功皇后が三韓征伐の時に対馬に寄った際に、八つの旗を祀ったといわれることから「八幡」という言葉が生まれた

 

とされているそうですが、神功皇后はなぜ八つの旗などを祀ったのでしょうね?でも実際は「神功皇后が八つの旗を祀ったといわれ」ているわけではなく、『古事記』にそう記されているだけでしょう。

 

もし誰かがそう言ったとすれば、『古事記伝』で荒唐無稽な解釈をした本居宣長でしょうか(^o^)。神功皇后は『古事記』が創った架空の人物であって三韓征伐はウソなのですから、「神功皇后が対馬に八つの旗を祀った」という事実はないのです。

 

この「八幡」の謂れを神功皇后とする説には何の根拠もなく、学者さんがお得意とする「・・・と考えてよい」というつじつま合わせの一つのようですが、それではなぜ『古事記』はこんなオハナシを記したのでしょうね?

 

「三歳の子が出現した」という「八幡宮宇佐宮御託宣集」のオハナシが先にあったので、712年に完成した『古事記』がその託宣を元に、「(渡来して来て日本の王になった)応神天皇は、八つの旗を祀って辛(韓)国から帰ってきた神功皇后が北九州で産んだ子だ」というオハナシに仕立てたということでしょうか?

 

それともこの由緒も、安心院(あじむ)の妻垣神社に神武の「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」があったとするオハナシと同じように、

宇合が西海道節度使や太宰帥として大宰府にいた天平49年の間に『古事記』に合わせて作ったものなのでしょうか?

 
 

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