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宇佐神宮5

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2017.1.31 宇佐神宮5
 
宇佐神宮の始まりは、「八幡宮宇佐宮御託宣集」には
 
欽明期に三歳の小児が出現して「辛国(からくに)の城に初めて八流の旗を天降して 吾は日本の神となれり」と告げた
 
と記されているそうです。
 
すると、この三歳の子は、「辛国(韓国)から来て日本の神になった」とは言ったけれど、自分は誉田天皇広幡八幡麿呂だとも、護国霊験威力神通大自在王菩薩だとも、応神天皇だとも、武運の神だとも言っていないようですね(^_-)
 
「三歳の小児が出現してそう告げた」というのも作り話だと思いますが、この三歳の子が言ったとされる言葉にさまざまな解釈や勿体が次々に付け加えられていった結果、この子はいつの間にか「護国霊験威力神通大自在王菩薩」というものすごい名前になり、菩薩なのに「悟りとは対極にある権力を希求する人」のための「武運のカミサマ(菩薩だからホトケサマでしょうか?)」になってしまったようです(^o^)
 
宇佐八幡のH.Pには、
 
御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。
 
と記されていましたが、「辛国(韓国)から来た」と言っただけで「自分は応神天皇だ」とは言ってはいないのに、この三歳の子はいったいいつ、どうして「応神天皇のご神霊」だということになったのでしょうね?「ご示顕になったといわれます」と記されていますが、いったい誰がそう言ったのでしょう?
 
ここまでの探訪と推理で、応神天皇とは462年に大陸の文化や知識を携えて22歳の時に辛(韓)国から渡来してきた「百済の王族・余昆」で、新しい国づくりをした王(天皇という言葉はまだありませんでしたから)であって、571年に降って湧いたカミサマでも三歳の小児でも神功皇后が産んだ子でもないということが確認できているのですが(^o^)
 
725(神亀2年)に、現在の地に御殿を造立したのは一体誰なのでしょう?上記の由緒の文章からは「応神天皇がここに御殿を造って八幡神を祀った」ととれるのですが、「八幡大神さまは応神天皇のご神霊」なのに、応神天皇が自分で自分の霊を祀ったはずはありませんし、506年に亡くなった応神天皇が725年に御殿を造れたはずもありませんし(^_-)
 
この由緒によれば、宇佐神宮が造られたのは725年のようですから、この神社を造ったのは725年に天皇だった聖武天皇だということでしょうか?
 
そうであれば、由緒の571年に示現したという八幡大神が「菩薩」や「天皇」を名乗ったことになっているのは、やはりこの由緒が作られたのが725年以降だったからなのでしょうね(^_-)
 
ところで、昨日のニュースで、国民の61%が天皇の退位に恒久的な制度が必要だと答えていると聞いたのですが、有識者だという人たちが言っていることはなんだかずれていて違和感がありますよね。有識者ってどういう種類の人達で、誰がその人達を「有識者」だと認めたのだろう?どんな知識や見識を持った人たちなのだろう?と疑問に思っていたのですが、先日の新聞のコラムに
 
天皇退位に関して「天皇陛下が昨年8月のお言葉で譲位制度の恒久化を求める考えを強く示唆され、国民も素直に受け止めているのに対し、政府の有識者会議による専門家ヒアリングでは国民から孤立し、陛下の思いにもそぐわない議論が繰り返された。ヒアリング対象者は不思議な人選だった。民意とは異なる譲位の反対者を多く集め、国民の多数が賛同する皇室典範改正による恒久制度化を強く求める専門家は少なかった。陛下一代限りの特例法か、譲位自体に反対かという対立構図を演出し、政府の方針とされる特例法に誘導しようとする意図が透けて見えた。
 
とあるのを読んで、そういうことだったのか、違和感の元はこれだったのかと納得しました。ひょっとすると「有識者」というのは「体制に寄り添う学者」のことなのかな~? 
 
 

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