2017.1.28 宇佐神宮3
私はお祭りの時くらいしか神社を意識していなかったのですが、子供の頃住んでいた町では八幡宮の氏子になっていたようです(^_^.)。
でも、ある時「神様」なのだと思っていた八幡神とは応神天皇のことだと知って、神社の神様って人だったのか!でもなぜ応神天皇が八幡神という名前になっているのだろう?八幡って何なのだろう?北九州の八幡市や四国の八幡浜は応神天皇と関係があるのだろうか?などととりとめもなく考えたことがありました(^o^)。
そんなこともあって、新聞の「八幡神は政治的、パワフルな神様」という見出しに眼を引かれ、その記事で八幡宮は全国に4万社以上もあるということや、八幡宮の「総本宮」は宇佐神宮であるということを初めて知ったのですが、記事の内容自体はよく理解できなかったので、後で考えてみることにして切り抜いておきました。昨日そのことを思い出してその切り抜きを探してみたら見つかりました\(^o^)/。
なんともう5年も前の2012年の新聞だったのですが、この記事によると、宇佐神宮の由緒には「八幡大神は欽明天皇の御代の571年に初めてこの宇佐の地に御示現になり、『われは誉田天皇広幡八幡麿呂なり。我名をば護国霊験威力神通大自在王菩薩と号す』と告げられた」と記されているそうで、その肩書きだけでも恐ろしくパワフルな神様のようである ということなのですが・・・・・。
それではこのカミサマが自ら「八幡麿呂」と名乗り、カミサマなのに「自分は菩薩」だと言ったということなのですね(^o^)。
でも、応神天皇の時代はもちろんのこと、欽明天皇の時代にも仏教はまだ伝来していなかったのですから、571年に示現したという八幡麿呂が「自分は菩薩だ」と名乗ったはずはありませんし、当時は「天皇」という言葉はまだ無くて「大王・おおきみ」と言っていたのですから「誉田天皇」と名乗ったはずもありませんよね(^_-)。
学者さんたちが信奉してやまない「正史」は、仏教が入ってきたのは欽明天皇より後の「推古天皇と聖徳太子と馬子」の時代だとしているのですし、その聖徳太子は国書に「天皇」ではなく「日出処の天子」と記しているのですし、この時煬帝の答礼使として隋から実際に日本にやってきた裴世清も「天皇」ではなく「阿輩鶏彌(おおきみ)」に謁見したと記しているのですから(^o^)。
これは、この宇佐神宮の由緒が作られたのは571年ではなく、仏教が伝来した後であり、しかも「天皇」という言葉が使われるようになった天武天皇の時代以降だということを示しているようです(^o^)。
また「菩薩」とは、サンスクリット語のボーディサットバの音写で、やはりサンスクリット語のブッダ(仏・正覚者・悟りを開いた人)になることを目指して修行している人のことだそうですから、この宇佐八幡に示現したという八幡麿呂(応神天皇)は、「自分は(神でも仏でもなく)仏になるために修行中の人間である」と名乗ったということになりますよね(^_-)。
この「悟りを開くために修行中の菩薩」だと名乗った八幡麿呂(応神天皇)は、いつの間にか「武運のカミサマ」になったようで、武将は戦勝祈願や切羽詰った場面では「南無八幡大菩薩」と手を合わせていたようですが、南無はナームの音写で帰依するという意味だそうですから、「応神天皇に帰依しますから勝たせてください」と祈っていたということでしょうか?でも八幡大菩薩が勝たせてくれるのなら、敵だって同じように「南無八幡大菩薩」と手を合わせていたはずだと私は思うのですけれどね~(^_-)。
多分武将たちは、「南無」や「仏」や「菩薩」がサンスクリット語の音写による漢訳などとは知らず、「八幡大菩薩」とは人なのか神なのか仏なのかなどと考えてみることもないままに、八幡大菩薩は自分だけに味方してくれるはずだと信じて呪文のように唱えていたのでしょうね(^_-)。「信じる」ということは「思考を停止する」ということのようです。
ところで、昨日は稀勢の里の奉納土俵入りがありましたが、堂々たる横綱姿でしたね\(^o^)/。でも、前から疑問に思っていたのですが、なぜ明治神宮なのでしょうね?明治神宮は「土俵のカミサマ」ではなく、明治天皇というヒトを祀っているということは、誰でも知っていますよね。明治天皇が相撲好きだったということなのかな~?