2017.1.27 宇佐神宮2 神仏習合2
1.24の「宇佐神宮 神仏習合」の続きに戻ります。
平安時代には、「仏や菩薩が本地」で「神は仮の姿」だとされていたそうですが、鎌倉時代末期から南北朝時代になるとカミサマ(神社)が巻き返して(?)、「神こそが本地」であって「仏が仮の姿」であるとする神本仏迹説が現れ、江戸時代になると幕府が拠り所とした儒学の理論によって両派を統合した垂加神道になったのだそうです。
つまり神や仏は方便であって実証も検証も必要としないものだから、どちらを本地としどちらを仮のものとするかはその時々の権力者の好みや計算や力関係などによって変わっていたということのようですね<(_ _)>。
信長がキリスト教を容認したのも、江戸幕府がキリスト教を弾圧し、儒教を取り入れたのも、自分の権力にとって有利か不利かという計算からだったようですし。
宗教にしても、古代史にしても、「解釈」というのは真理や真実を追求することとは対極にあるもののようですが、「都合に合わせてどのようにでも解釈できるイリュージョン」の過去の解釈のつじつまを合わせたり、新しい解釈を作り出したりするのは「学問」なのでしょうか???
8世紀の「宇佐神宮神託事件」で八幡大神が僧形で顕現したということは、この頃はカミ(神職)よりもホトケ(僧)の方が強くなっていて、本地はホトケで八幡大神は仮の姿だとされていたということなのでしょうね。
この事件では、初めに「道鏡を皇位につかせれば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託が奏上され、その後、和気清麻呂がそれを否定する内容の神託を持ち帰ったということになっているようなのですが、カミサマが実際にものを言うはずはありませんから、宇佐神宮が「カミサマがそう告げた」というオハナシを作ったのでしょう(^_-)。
自分に都合の良い託宣を下させることのできるカミやホトケとは本当に使い勝手のよい方便のようで、都合が悪ければ解釈を変えたり正反対の託宣を出させることができたようですし、解釈や託宣を変える代わりに自分が都合のよいカミサマやホトケサマに乗り換えることもできたようですが、そのことによって神罰や仏罰が下ったということもないようです(^_-)。
明治の廃仏毀釈の際には、興福寺の僧はこぞって春日大社の神職に鞍替えしたばかりか、壊した仏像でお風呂を沸かしたりもしたそうですし<(_ _)>、16世紀には、王妃と離婚して若い侍女と結婚するために離婚を認めないカトリックを止めて英国国教会を作り、6回も結婚を繰り返したというヘンリー八世のような王様もいたようですし、新しいところではトランプ米大統領の娘のイヴァンカさんは、ユダヤ教徒の現在の夫と結婚するためにキリスト教長老派を止めてユダヤ教に乗り換えたのだそうですし、先日の大河ドラマでは、結婚を避けるために「出家して、ほとぼりが冷めた頃に還俗すればよい」と和尚さんが言っていましたよね(^o^)。
それでも神罰も仏罰も下らないのは、「小さい人」が無垢な眼と心で感じ取ったように、「かみさまはにんげんがつくった」もので、「ほんとうのかみさんがいない」からなのでしょうね(^_-)。
「宇佐神宮神託事件」では、このお告げをしたカミサマは僧形だった上に「僧の道鏡を皇位につかせるように」と託宣したのですが、この神託を奏上したのは習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)という神職だったのですよね。そして、それを覆す神託を受けたのも宇佐神宮の禰宜だったのです。
するとこの神託事件には、神(神社・神職)と仏(お寺・僧)の勢力争いではなく、称徳天皇と藤原氏のどちらに付くのが宇佐神宮にとって得策かという神宮内部の争いが絡んでいたということでしょうか。