2017.1.23 妻垣神社は足一騰宮ではなく八幡宮だった?4
妻垣神社はやはりここまでの推理どおり、神武の「足一騰宮」ではなく「八幡宮」であり、765年に石川豊成によって社殿が造られ、応神天皇夫妻が祀られたことが由緒から分かりました\(^o^)/。
では、なぜ天平4~9年に太宰府に赴任していた宇合が、『古事記』のオハナシに合わせて「神武の足一騰宮」があったことにしたここに、天平神護元年(765)年になって急に八幡宮の社殿が建てられることになったのでしょうね?
天平神護年間(765~767)というと時期的には応神天皇の子孫である称徳天皇(764~770)の時代で、道鏡を巡って宇佐神宮神託事件(769)が起きた頃のことであり、神託を受けて応神天皇を祀る社殿を造ったという勅使の豊成は石川氏ですから、やはり応神天皇の子孫だったのですよね。
宇佐神宮神託事件は「称徳天皇と道鏡の恋愛事件」ではなく、崇神系王族と応神系王族の皇位争いに様々な権力争いや勢力争いが絡んだ政治的な事件であり、「道鏡と称徳天皇の恋」や「神託」はデッチあげであったことを突き止めた「古代史探偵・推古」としては、なにか不穏なニオイを感じるのですが(^_-)。
「宇佐神宮神託事件」の謎解きは、2014.11.1から12.30まで延々とやっていますから、ご興味がありましたら↓からどうぞ(^o^)。
ところで昨日は大相撲の千秋楽で、稀勢の里の優勝で19年ぶりに日本人の横綱が誕生することになったのですが、その稀勢の里が初めて賜杯を抱いた歴史的瞬間を目撃することができました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
協会ご挨拶
三役揃い踏み
賜杯
私は大相撲の熱心なファンというわけではないのですが、常陸探訪の一環として古代には海だったのではないか?と考えて牛久沼の地形を見に出かけた時、稀勢の里を応援するポスターが町中のどのお店にも張られているのを見て稀勢の里が牛久市の出身であることを知り、それからずっと気になっていました(^o^)。
ひょっとするとこれで「牛久」の地名が待望の横綱の出身地として全国区になり、マイナーだと無視されてきた『常陸国風土記』や常陸の歴史にも光が当たる「常陸」の時代が来るかも?と土俵を見ながらチラッと考えたりしました(^_-)。
ところで「牛久」って妙な地名ですよね。地形に由来するとは思えないし、いったい何なのだろうと疑問に思いながらずっと調べるのを忘れていたことを思い出して調べてみると、「潮来(うしおく)」が「うしく」になったとする説があることが分かりました(^o^)。
そんなに遠くない時代まで海だった霞ケ浦の周辺の、現在の海寄りの方では「潮来」が「いたこ」となっていますが、反対側の牛久では「潮来」が「うしおく」になって「うしく」になったようですね。
「怠け者の小僧が牛になってしまい、沼に身投げをした。そこから『牛を沼が食った』『牛食う沼』と変わり、その沼が牛久沼と呼ばれるようになった」という説よりはずっと納得できます(^o^)。ヒトが牛になることなどありませんし、怠け者は自殺などしないでしょうしね(^_-)。
「関東平野は古代には海だったのではないか」と推理し、それを確認するために常陸探訪をしていた当時は全く信じてもらえませんでしたが<(_ _)>、実際に行ってみると、地名や地形や郷土資料館や地域資料にはちゃんと痕跡が残っていましたし、何人もの海だったことを知っている方や、明治生まれのおじいちゃんやおばあちゃんからそう聞いていたという方に出会うことができました。平野や盆地はかつては海であり、牛久沼も海だったのです。