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妻垣神社は足一騰宮ではなく八幡宮だった?3

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2017.1.21 妻垣神社は足一騰宮ではなく八幡宮だった?3
 
私は安心院に行ったことがないので、どんな場所にあるどんな神社なのか知りたいと思って画像を探してみたら鳥居の写真があったのですが、その鳥居の扁額は「八幡宮」となっていましたから、少なくてもこの鳥居が造られた時には、この神社は応神天皇を祀る八幡宮だったようです(^o^)
 
その写真では鳥居の前面は水田になっていましたから、この鳥居は盆地(古代の海)を縁取る山の麓の「一の鳥居」のようです。いつ建てられたものかが分からないのですが、もしこの鳥居が当初からここに建てられていたのであれば、ここはその当時、もう湿地や芦原ではなく乾いた陸地になっていたのでしょうね。
 
八百万(やおよろず)と言われるほどたくさんのカミサマをそれぞれに祀っている神社は、どこでも「あれ?」と思うほどによく似た場所に造られているのですよね。↓は常陸太田市の星宮神社のある星神社古墳なのですが、水田の方から妻垣神社の鳥居の方を見るとこんな感じなのではないでしょうか。ここは盆地の縁ではなく関東平野の中にある小規模な高まりなので、山の高さや深さは全く違うでしょうけれど(^o^)

イメージ 1

イメージ 2


私は、ここは古代には小さな島だった所で、星神社古墳はその島に造られた墓であろうと思います。ここの地名は「小島町」ですしね(^o^)
 
近くには梵天山古墳という全長151mの巨大な前方後円墳と古墳群があるのですが、そちらは大きな高まりで地名は「島町」となっています。どちらも久慈川とその支流に挟まれた水田地帯の中に盛り上がっている所ですから、この平野が海で、これらが点在する大小の島だった頃に付けられた地名だろうと私は思うのですが、学者さんたちはこの平野は久慈川の氾濫原だというのでしょうね。
 
梵天山古墳
イメージ 3


イメージ 4

イメージ 5

 
ところで、妻垣神社の由緒には「天平神護元年(765)108日、宇佐宮の八幡大神は勅使石川豊成に『我はすでに共鑰(ともがき)山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下し、当地にはじめて社殿(下宮)を設けられました。」とありますから、ここにはそれまでは8合目の囲いの中の石と3合目の小さな拝殿だけしかなかったということなのでしょうね。
 
由緒によれば、765年に豊成がここに社殿を造って比(ヒメ)大神と八幡大神を併せて祀ったのだそうで、神功皇后が宇佐神宮から勧請されて加わったのはずっと後の天長年間(823834)だったそうです。すると、ここはやはり「神武の足一騰宮」ではなく、初めから「八幡宮」として作られた神社だったようです(^o^)
 
でも、豊成が応神天皇を祀った八幡宮に応神の母ではなく神武の母を一緒に祀ったというのは不自然ですよね。豊成が祀った比大神というのは、神武の母の玉依姫ではなく、応神の妻だったのではないでしょうか(^_-)。祖廟にはたいてい「ウサツヒコ・ウサツヒメ」のように王夫妻が「地名+ヒコ・ヒメ」として祀られていますから。『陸行水行』ではウサツヒコ・ウサツヒメは兄妹となっていましたが(^o^)
 
例えば↓は、名草の王夫妻(名草彦・名草姫)を祀る中言神社

イメージ 6

天長年間になって、応神天皇が他人の母と一緒に祀られているのはおかしいと思った人が、応神の母とされていた神功皇后を勧請して付け加えたということなのではないでしょうか(^o^)



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