2017.1.20 妻垣神社は足一騰宮ではなく八幡宮だった?2
なぜ「安心院」と書いて「あじむ」と読むのか?について、八幡宇佐宮御託宣集「御遊化(ごゆうげ)の部」には、
ここ「御神山」(ごしんやま)は比大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)であり、かつて応神天皇の御霊が霊界修行の時、ここ院の内において、玉依姫と共に、利生(りしょう・衆生済度)の語らいをされた時、玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、尓(しか)言うなり。
と記されているそうで、それを元に妻垣神社では「玉依姫様がこの磐座の院の内において安心された事に由来する」としているようですが、一体どうして玉依姫が安心したことが分かったのでしょうね(^_-)。誰かが見ていたか、玉依姫が「安心した」と言うのを聞いていたとでもいうのでしょうか?そもそも誰かがそこで本当に安心したとしても、それが地名になったりしたはずはないと私は思うのですけれど(^o^)。
利生(りしょう・衆生済度)というのは仏教の思想のようですが、なぜ比大神と八幡大神というカミサマが仏教について話し合いをしていたのでしょうね?紀元前の玉依姫の時代にはもちろんのこと、5世紀(『記紀』では3~4世紀)の応神天皇の時代にも仏教はまだ日本に入ってきていませんでしたし、比大神の時代には仏教自体がまだ無かったのですから、これも【ヤマトタケルがここで「ああ、吾が妻よ」と言ったから「吾妻(東)の国」という】などと同種の故事付けで、このオハナシ自体は仏教伝来以降に作られたもののようです。
作り話でも作られてから1300年も経てば立派な「事実を伝える伝承」になってしまっているようで、以前「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をお読みになった方から「神功皇后が応神天皇を生んだ場所がちゃんとあるのだから神功皇后が架空の人物のはずはない」というご意見を戴いたのですが(^o^)、神功皇后はもう歴代天皇の一蘭からも教科書からも削除されてしまっています。「日本会議」に属する国会議員の方々は天壌無窮などという『記紀』のウソを信じきっている(または信じているふりをしている?)ようですが(^_-)。
「あじむ」の地名は、やはり玉依姫が安心したからではなく、海が退いた跡に一面に茂った芦生(あしぶ)から「あじむ」になったのではないかと思うのですが、「あじむ」に音も意味も全く違う「安心院」の文字を当てて「故事付け」をしたのは、「ひたち」にやはり音も意味も全く違う「常陸」の文字を当てて「故事付け」をした虫麻呂なのでしょうか?この「故事付け」をしたのは、仏教伝来以降の人のはずですから(^_-)。