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妻垣神社は足一騰宮ではなく八幡宮だった?

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2017.1.19 妻垣神社は足一騰宮ではなく八幡宮だった?
 

また常陸に飛んで行ってしまいましたが安心院に戻ります(^o^)

 

神武の東征は『古事記』の創作ですから、神武が紀元前に入ったという「足一騰宮」が実際にあったはずはないのですが、妻垣神社の付近には、石の他になにか宮跡のようなものがあったのだろうか?もしあったとすれば、それは4世紀末に東征を始めた崇神の宮跡なのだろうか?とぼんやり考えていて奇妙なことに気が付きました。

 

妻垣神社は『古事記』にある「足一騰宮」はここにあったとしているのに、ここに入ったはずの神武天皇も、実際に東征をした崇神天皇も祀っていないのです。妻垣神社が祀っているのは、「足一騰宮(上宮)」に神武天皇の母である比大神(玉依姫命)、「本殿(下宮)」に比大神・八幡大神(応神天皇)・応神天皇の母の神功皇后(息長帯姫命)だそうですが、応神天皇は紀元前の神武天皇よりずっと後の時代(『記紀』によれば900年、実際には1000年以上後)の人なのに、なぜ神武天皇の足一騰宮があった(とされている)所に応神天皇が祀られているのでしょうね?

 

紀元前の神武天皇とその母・玉依姫命は712年に完成した『古事記』が創ったオハナシの登場人物ですし、200270年に15代天皇だったとされていた神功皇后もやはり『古事記』が創ったオハナシの登場人物で、架空の人物として1926年(大正15年)に歴代天皇から削除され、現在の15代天皇は応神天皇になっているのですよね。

 

もし妻垣神社が古代に祖廟として造られた神社なのであれば、この中で実在の人物は応神天皇だけですから、もともとここは「応神天皇」を祀っていた八幡神社で、比大神と神功皇后は『古事記』が完成した712年以降に『古事記』に合わせて付け加えられたのかもしれません。

 

九州諸国の風土記は『記紀』が作られたあとで、不比等の息子の宇合によって『記紀』のウソを現実化するために『記紀』の内容に合わせて作られたようですから(^o^)、架空の人物である神武がここに来て「足一騰宮」に入ったという伝承はその時に『記紀』のオハナシに合わせて創られ、「足一騰宮」があった場所として山中にあった石が玉垣で囲まれたということなのかもしれません(^_-)

 

福岡市の宇美町には「三韓征伐から戻った神功皇后がここで応神天皇を生んだからこの地を宇美(うみ)という。」という伝承(?)もあるようですが、このゴロ合わせの「故事付け」も、宇合や虫麻呂によってこの頃にされたのかもしれませんね。神功皇后は架空の人物で応神天皇を生んではいませんし、余昆(後の応神天皇)が渡来してきたのは22才の時だったのですし(^o^)

 
志免町には「ここで応神天皇のおしめを替えたからこの地を志免(しめ)という」という伝承(?)もあるようですが、このゴロ合わせの「故事付け」はこの時作られたものではないようです(^_-)




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