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コメントへのお返事の続き 筑波の海

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2017.1.18 コメントへのお返事の続き 筑波の海
 
RainDropさまは「常陸の国の住人」でいらっしゃいますから、地名を聞けばどの辺りのことか見当がつき、古い写真を見てもどの辺りをどう撮ったのかお分かりになるのでしょうね。でも、他地域にお住いの方には全く分からないようです。以前、出版社の方に「常陸はマイナーだから・・・」と言われましたが、常陸の歴史や地名はそれほどに知られていないのです<(_ _)>


筑波山とかつては海(騰波の江)だった平野
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この辺りからはクジラやイルカの化石も出ていますし、そのものズバリの「鯨」という地名もあります。 
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納得できるような説明が見つからないので『常陸国風土記』を元に常陸探訪をしてみたら、古代の地形と、常陸には天津族の東征が紀元前ではなく4世紀末~5世紀始めであったことなどの『古事記』が記した歴史は真っ赤なウソであることを示す証拠がたくさん残っていることが分かってきました(^o^)
 
『古事記』が「神代の国譲り」や「紀元前の神武の東征」のオハナシに仕立てて隠したオオクニヌシ(大洗神社などの祭神)やタケミカヅチ(鹿島神宮や大井神社や草懸神社の祭神)やフツヌシ(香取神宮の祭神)やタケハヅチ(那珂市の静神社や大甕倭文神社の祭神)に騙まし討ちにされたミカホシノカカセオらの足跡が至る所に残っていたのです。
 
それが、686年以降ずっと権力を握り続け、女帝や幼帝を立てて「実質の天皇」として『記紀』で日本の歴史を捏造した不比等が、わざわざ息子の宇合を国司として常陸に送り込んできた理由だったのかもしれません。風土記編纂の官命が下ったのは、『古事記』が完成した712年の翌年の713年(和銅6年)なのです。常陸の歴史は意図的に隠されてきたのではないでしょうか。
 
さらに風土記の逸文によれば、九州諸国の風土記は同一の編述方針の元に同体裁で編述されていて、『日本書紀』と記事内容ばかりか文章まで酷似しているのだそうですが、これらは宇合が西海道節度使や太宰帥として大宰府にいた天平49年の間に作られたもののようです。


『記紀』は、天孫が高千穂に降臨しただとか、神武は日向にいて、紀元前に日向から東征に発っただとかと九州では真っ赤なウソをたくさん書いていますから、他人に編纂させるわけにはいかなかったのでしょうね(^_-)
 
随行の高橋虫麻呂は、実際に各地に足を運んだようで、各地で歌を詠んでいます。この虫麻呂が筑波の歌垣で詠んだ「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の 其の津の上に・・・」という歌が万葉集にあるのですが、この歌にあるように当時の筑波の麓は本当に「津」だったのです(^o^)。裳羽服津については↓の辺りにありますので、よろしかったらご覧になってください。
 
ここでは、ついでに学者さんたちが常識としているこの歌の「人妻におれも交わろう。おれの妻に他人が言い寄ろうともかまわない」という解釈が全くの誤りであることも分かりました。立派な肩書きをお持ちの学者さんの学説であっても、不自然なものは盲信してはならないようです(^_-)
 

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