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足一騰宮(あしひとつあがりのみや)

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2017.1.17 足一騰宮(あしひとつあがりのみや)

 

私は『常陸国風土記』に載っているところへは片端から行ってみたのですが、他の土地はあまり知らないこともあって、土地勘のない場所の歴史を考えていると、つい頭が常陸に飛んで行ってしまいます(^_^.)


でも全体は部分からできているのですから、常陸探訪で読み解いた地形と歴史の考え方が間違っていなければ、それは全体にも通用するはずと考えたのですが、ここまでのところ矛盾なく通用してさまざまな謎が解けてきています(^o^)
 

『古事記』は、神武は日向を出発して筑紫へ向かい、速吸瀬戸(豊予海峡)を通過した後、宇佐都比古・宇佐都比売に歓待されて「足一騰宮(あしひとつあがりのみや)」に入ったと記しています。

 

私は紀元前600年代に神武が日向から発ったというのは『古事記』のウソで、東征に発ったのは4世紀末の崇神であり、東征に発つまで天津族が宮を置いていたのは日向ではなく、東征後もずっと後々まで天津族が「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼んでいた大宰府の「字・内裏」や「字・紫宸殿」などの地名の残る所だったのではないかと考えました。

 

↑は4年前の2012年に推理したものなのですが、その後、2016年に『新ウィルス物語』で縄文人に由来するATL(成人T細胞白血病)ウィルスのキャリアが北九州には少なく南九州に多いこと、中国・朝鮮に由来するB型肝炎ウィルスのadr型のキャリアは北九州や本州西端に多いことが分かり、そのウィルスの分布から天津族が本拠地としていたのは南九州ではなく北九州であるという4年前の推理は間違っていなかったことを確認することができました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。


新ウィルス物語

イメージ 1

 

私はまだ太宰府に行ったことがないのですが、この「遠の朝廷」があった場所は太宰府天満宮になっている場所ではないかと推理したので、機会があれば行ってこの推理が正しいかどうか現地で確かめてみたいものです(^o^)。天満宮の隣には九州国立博物館もできているそうですしね。


国立の博物館というのは『記紀』を信奉する学者さんたちが作っているもののようで、『記紀』のつじつまを合わせるような説明ばかりで納得できる説明がないので、私は郷土資料館や地域資料の方がずっと面白いし興味があるのですが、ひょっとすると博物館が建っている場所が「字・内裏」や「字・紫宸殿」だった所なのかもしれませんからね(^_-)

 

『古事記』では日向に神武の宮があったことになっていて、安心院盆地の妻垣神社には、その神武が日向を発って速吸瀬戸から筑紫に向かった時に入ったという「足一騰宮」があった場所だという伝承があるわけです。

 

『陸行水行』には、この「足一騰宮」について本居宣長が『古事記伝』で「川の傍の断崖に建てられた建物で、船から一足であがれるという意味だろう」とたいそう苦しい解釈していると記されていました。地図を見ると、神社のある山の裾を津房川が流れているのですが、確かに川から一足で上がれるような場所ではないようですね(^o^)

 
いずれにしても「神武の東征」は創作なのですし、天津族が東征に発ったのは紀元前600年ではなく4世紀末なのですし、南九州からではなく北九州からだったのですから、つじつまが合うはずはないのですけれど(^_-)
 
 

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