2017.1.16 常陸国の地形と『常陸国風土記』の解釈
既存の『記紀』解釈や古代史解釈はなんだかおかしい、納得できないと感じていた私が『陸行水行』や『まぼろしの邪馬台国』には「なるほど、そうかも」と思ったのは、実地踏査に基づく地形が記されていて、それがこれまでに『常陸国風土記』を元に常陸で検分してきたことと一致していたからなのです(^o^)。
それまではよく分からないまま半信半疑でいた歴史学者さんたちの解釈を「間違っている」と確信したのは、『常陸国風土記』の冒頭の部分の解釈を読んだ時でした。「直通(ひたみち)であることから常陸国(ひたちのくに)と名付けた」という部分の「直通」が、「船を要せず陸路だけで行き来できるの意である」と解釈されていたのです。
なぜ「常陸」を「ひたち」と読むのだろう?と疑問に思っていた私はこの解釈を見て、なるほど「ひたみち」が「ひたち」になったのか、だから「常に陸」と書いて「ひたち」なのか、と納得しそうになりました(^o^)。
でも実際に行ったことがなくても、奈良や京都から陸路で常陸の国へ向かうためには、江戸時代まで橋が架かっていなかった大井川など、途中でいくつもの大きな川を越えなければならないということは地図を見ただけでも分かりますよね。それらの川を全く船を使わずにどうやって渡ったのでしょう?木造の長い橋を架ける技術は古代には無かったようですが。
もし解釈のように常陸国まで船を使わずに陸路だけで行けたのであれば、常陸までの間にある国々は全て陸路だけで行ける「直通(ひたみち)の国」だったということになりますから、そうであれば常陸国だけが「ひたみちのくに」と呼ばれたはずはありませんよね。
この解釈はおかしい、いくつもの川を渡らなければ行くことできない常陸が「直通(ひたみち)の国」であるならば、この直通は陸路ではなく海路のことなのではないかと考え、実地踏査をして地域資料を収集してみたら、関東平野は当時海だったことが分かってきて『常陸国風土記』の地形の記述の謎が解けてきました\(^o^)/。
筑波山の麓まで海だった常陸国は、宇合と虫麻呂が赴任した頃には石岡にあった国府まで船に乗ったまま直通で行くことができたのです。古代の旅を考えれば、長距離を途中で渡し船に荷を積み替えたり、船越をしたり、荷物を担いで険阻な山道を歩いたりせずに行けたとすれば、これは特筆すべき「ひたみちのくに」ですよね。
奥に見えるのが筑波山、手前には太平洋に続く霞ヶ浦があり、中央が常陸国府のあった石岡の台地です。この写真の頃には、古代の海はもう水田や湿地や川になっていますが。
でも「常陸」を「ひたち」と読ませたのは、言葉遊び・文字遊びの故事付けだったのではないでしょうか(^_-)。銚子を頂点として逆「く」の字に折れ曲がっている日本列島では、銚子が列島の最も東に位置していて日本一日の出が早いのです。「ひたちのくに」は「日立の国」で、それに「直通(ひたみち)」をかけて語呂合わせをし、その音(おん)に「常陸」の文字を当てたのではないかと私は思うのですが(^_-)。
というのも『古事記』や『風土記』には、語呂合わせやダジャレなどの言葉遊びや文字遊びの「故事付け」がとても多いのですよね(^_-)。
「陸路だけで行ける」というこの解釈は、明らかに事実に反しているのですが、多分学者さんたちのあいだでは誰も疑ったりしない常識や既定の事実になってしまっているのでしょうね(^_-)。
ここまでに実地踏査を通して得た教訓は、「学説や定説や常識を盲信してはならない」ということと、
「どんなに立派な肩書や評価をお持ちの学者さんの説であっても、肩書きで判断してはならない」ということですね(^_-)。