2017.1.15 安心院盆地2
安心院盆地は風光明媚な盆地で、昼と夜の寒暖の差が激しいため由布院盆地などと同様に放射冷却による朝霧が有名だそうで、妻垣神社のH.Pによれば、清張氏は「霧が立ち込め盆地の南に龍王山、妻垣山(共鑰山)の麓にある古代ロマンに満ちた妻垣神社や騰宮学館が深く印象に残り、のちの小説『陸行水行』を執筆したといわれている」そうですし、司馬遼太郎氏は「盆地の景色としては日本一」と絶賛していたそうです。ますます行ってみたくなりました(^o^)。
↓は埼玉県の鹿島古墳群ですが、霧の立ち込める風景は本当に非日常的で幻想的なのですよね(^o^)。
私は『陸行水行』や『まぼろしの邪馬台国』の結論はともかくとして、松本清張氏や宮崎康平氏が邪馬台国に迫っていった過程にはなるほどと思うことが多かったので、記されている行程を実際に辿ってみたいと思いましたが、それ以外の諸説には疑問を感じるばかりでした。
『陸行水行』には、「どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています。いや、学者というものは身勝手なものですよ。どの学者も自説によろしくない所は勇敢に切り捨てておいでになっています。」とありましたが、何の検証もしない言いっ放しの解釈ってやっぱりそういうものだったのですね<(_ _)>。
私は「古代人は方向が分かっていなくて南と東を間違えたのだろう。南を東と読みかえれば邪馬台国は大和にあったと考えられる」という説を知った時には本当に驚きました。距離や方向が正確に分かっていなかったら、あるいは東を南と勘違いするほどの方向音痴だったら、中国からは遥かに遠くて見えているわけではない邪馬台国まで海を渡って辿りつけたはずがないし、万万が一運よく辿りつけたとしても、運任せでは再び無事に自国へ帰れるかどうか分からないではありませんか。
使者とは未知の国を探しに行く冒険者ではなく、皇帝の言葉を相手に伝え、復命する義務を負った人なのですから、辿りつけるかどうかは運任せなどということはあり得ないと私は思ったのですが、ただつじつまを合わせるためだけの机上の空論だとそんな解釈もできてしまうのですね(^_-)。
『陸行水行』には「第一、太陽が東から上って西に沈むくらいは魏使だって知っていますよ。いや、長い航海をし、暦を知っていた古代の中国人だからこそ、特に天の運行に関しては鋭敏な感覚を持っていたはずです」ともありましたが全く同感です。天体観測や暦に関しては中国の方がずっと先進国だったのですから。
机上のつじつま合わせの空論と比べると、『陸行水行』や『まぼろしの邪馬台国』のように実地踏査に基づいて書かれたものは、訳の分からない飛躍がありませんから説得力が違いますよね(^_-)。