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Channel: 歴史探訪
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安心院盆地

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2017.1.14 安心院盆地

 

標高20m以下の周防灘に面した宇佐平野は古代には海で、この海に繋がっていた安心院盆地も4世紀にはまだ海か、塩湖だったのではないかと考えながら『陸行水行』を読んでいると、「足一騰宮」の石のある所から盆地を見下ろした景色が「木の間から見える安心院盆地は、ひろびろとした曠野にも似ていた。ここは古代人が生活地として求めそうな地形であった」と記されていました。この「ひろびろとした曠野にも似た」平野は、古代には海だったのでしょう。

 

これは、現地に行かれて実際に見たからこその描写なのですよね。私たちも常陸探訪をしているうちに、縄文遺跡や古墳がある所はどこも良く似た地形だったので、「古代人が生活地として求めそうな地形」かどうかがが分かるようになってきました(^o^)。出かける前に標高や地形を見て、遺跡があるかどうか、いつ頃の遺跡なのか見当がつくようになってきたのです\(^o^)/。

 

東日本大震災の後、町の高台への移転が検討されていた時、移転先となる平野に面した高台の縁には多くの遺跡が並んでいることが問題になっていましたが、それはそこに人が住み始めた頃にはそこが海辺の一番住みやすい場所だったからなのです。

 

そういう場所は、今では坂を登り降りしなくてはならない少し不便な場所になっていますから、多くの人は平野部に家を建てて住むようになっているのですが、ではなぜ縄文人は便利で暮らしやすい平野ではなく、海から離れた高台の不便な場所にばかり遺跡を残したのかというと、縄文人が不便な場所を好んでいたからではなく、現在の平野部は、当時は海か湿地で住める場所ではなかったからでしょう。当時海に近くて一番暮らしやすかった場所が「今は平野となっている海」に面した高台だったのです。

 

地形や海の高さは時代によって大きく変わっていますから、暮らしやすい場所(遺跡のある場所)や高さは時代によって違っていて、例えば甲府盆地では、縄文時代(450m)→弥生時代(350m)→古墳時代(250m)というように遺跡は盆地の周辺の山地からだんだんに低い方へと移動していき、現在の町は、かつては海や湖の底だった平野部に広がっているのです。


平安時代にはまだ海辺だった(?)差出の磯から見た甲府盆地 
イメージ 1

町は盆地の底に広がっています。


水路として残った笛吹川の岸の差出の磯

イメージ 2

安心院盆地の描写を読んで甲府盆地とよく似ているようだと思いながら、甲府にも、会津にも、福島にも、沼田にも、安曇野にも、かつては海であって周囲に古墳や遺跡のある盆地には湖の伝承や蛇や龍の伝説が残っていましたから、

安心院盆地にも湖の伝承が残っているのではないかと探してみたらやはりありました\(^o^)/。

 

安心院という地名の由来については種々の説があるが、一説には芦が生えていたことから芦生(あしぶ)の里といったのが後に「安心」に転じ、中世に宇佐神宮の荘園となって倉院が置かれたことから「院」をつけて「安心院」と書かれるようになったという。この盆地の成因については、かつて湖であったという説があり、この説によれば、地名の由来の芦生は、湖が干上がって干潟となり芦が生えていた様を表しているとされる。  Wikipediaより

 

芦生が安心に転じたというのは不自然ですし(^_-)、地名は中世以前からあったはずなのに、その「あじむ」に倉院が置かれたから意味も音も全く違う「安心院」の文字を当てたという説は私には納得できませんが(^_-)、「あしぶ」が「あじむ」になったというのはありそうですね(^_-)

 

「芦生が安心に転じた」という地名の由来はともかくとして、やはりこの盆地は縄文人が住み始めた頃は海で、海退に伴って海までの水路としての川を残して干上がっていき、塩分の残る干潟や湿地には塩分に強い芦が茂って一面の芦原になっていたのでしょう。そしてその芦原は、やがて枯れた芦の堆積や周辺の山から運ばれてくる土砂によって中世には豊かな平野になっていたのだろうと思います(^o^)




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