2015.9.3 諏訪湖と塩5 甲府盆地
今朝、空気の中にかすかにキンモクセイの香りを感じました。花が咲き始めたようですね(^o^)。
さて、「塩の山」や「差出の磯」があったという甲府盆地はどういう所なのだろう?と調べてみると、「甲府盆地には河川の堆積作用により700m以上の砂礫層がある」のだそうです。けれど、それほどの厚さの砂礫の堆積があるのは、この盆地がかつてたくさんの河川が流入していた海だったからではないでしょうか(^o^)。
でも、甲府盆地は平均高度が300mで、古代には海だった関東平野などと比べるとずっと標高の高い所にあり、航空写真を見てもこの盆地が直接駿河湾に繋がっていた海だったとは思えません。甲府盆地と駿河湾は富士川で繋がってはいますが、駿河湾から標高300mの甲府盆地まで潮が富士川を遡ってくることはあり得ませんから、甲府盆地に磯や塩があったとすれば、太古の海が取り残された塩湖だったのかもしれません(^o^)。
また、「甲府盆地の中南部の低地はかつて北東から流れる笛吹川と北西から流れる釜無川の氾濫原であり、水田地帯として利用されてきた」のだそうで、またここにも学者さんたちの常套句である「氾濫原」が出てきましたが、それは逆だと私は思います。川が氾濫して広大な平野を作ったのではなく、盆地を満たしていた古代の海が退いていった後に現在の海までの水路として残ったのが「川」なのです。奈良盆地の大和川も、会津盆地の阿賀野川も、甲府盆地の釜無川も笛吹川も。
そしてこの甲府盆地の古代の海の跡も他の海の跡と同じように、海→塩分の残る湿地→葦原→塩分の抜けた湿地→水田→住宅地と変遷していき、現在この盆地は県庁・鉄道・高速道路・国道などの集中する山梨県の中心地になっているようです。
奈良でも大阪でも、町は古代の海の跡の平地に集中していました。
3~4世紀の大国主時代の官道だった標高100mの「山の辺の道」から見た奈良盆地
町ははるか下の盆地の底に広がっています。
生駒山の中腹の野崎観音から見た大阪平野
玉祖神社付近から見た大阪平野
町は生駒山の麓から現在の大阪湾まで続く平地に広がっているのですが、4世紀末には、この平野は山の麓まで海であり、天津族はこの麓の日下(草香・孔舎衙)まで船でやって来たのです(^o^)。
広くて平らな海の跡は、鉄道や道を造りやすく、暮らすのにも楽で便利ですから、人や町は山間部や斜面から低い方へ平らな方へと移動していたのです。
つまり、海面が下がって低い所に平らな陸地ができるにつれて、旧石器時代や縄文時代には山間部にあった集落は、弥生時代には縄文時代の海の跡へ、古墳時代には弥生時代の海の跡へと移動し続け、平成の今は昭和の海の跡である埋め立て地のウォーターフロントへと移動していっているというわけです(^o^)。
航空写真を見るとこの甲府盆地は、北東は甲州市、北西は北杜市まで広がっていて、北杜市から諏訪湖までは中央本線や中央自動車道の走る谷になっています。
この谷は十数年前に天竜川ができる以前に、諏訪湖から溢れた水が糸魚川静岡構造線を削りながら流れ下ることによってできた谷でしょう。その頃諏訪湖から流れてきていた水は海水だったのかもしれませんね(^o^)。諏訪湖からあふれた水はこの構造線を削って谷を刻みながら北杜市の辺りで甲府盆地を満たしていた海に注いでいたようです。ひょっとすると甲府盆地の海は、諏訪湖から流れてきた海水でできたのかも?
この谷については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第7章の6「古代の諏訪湖」をご参照ください。 アマゾンへ