2015.9.2 諏訪湖と塩4 文学作品と歴史
「差出の磯」を詠んだ歌はたくさんありましたが、それでは当時の歌人たちがみな現地に行って歌を詠んでいたのかというとそういうわけではないようです(^_-)。気軽に遠くまで観光旅行に行けるような時代ではなかったのですから、行ったことはないけれど歌枕からイメージを膨らませて詠んだ人もいたでしょうし、能因法師のように都にいたまま行ったふりをして作った人もいたようですし(^_-)、・・・
そもそも『古事記』を始めとして物語や歌や小説などの文学作品というものは事実だけを書いているわけではないのですから、「歴史小説」ならともかく、そういったオハナシを丸ごと信じてもっともらしくつじつまを合わせている歴史の「学説」なるものは、『古事記伝』を筆頭にして、結果的に「ウソ八百の歴史の捏造」に加担することになっているようです<(_ _)>。
疑問に思った点を検証してみたら(^_-)、楠木正成が子と別れたという桜井の駅は駅自体がなかったようですし、
櫻井の驛址 国指定の「史跡」になっています
日本人なら誰でも知っている『勧進帳』は完全な創作であって、「安宅関」という関も無かったようですし、
安宅関址 こちらも「史跡」になっています
源義経は見目麗しい美青年ではなかったようですし・・・・<(_ _)>
ですから、奈良・平安の歌人たちが実際に波の打ち寄せる海辺の情景を見ながらそれらの歌を詠んだのか、「差出の磯」という歌枕からイメージを膨らませて海辺の情景として詠んだのかは分かりませんが(^_-)、これらの歌の中で「文治六年女御入内和歌」は
八千代とぞ千どりなくなるしほの山さしでのいその跡をたづねて
となっていますから、遅くても12世紀にはもう磯ではなく「磯の跡」になっていたようです(^o^)。
また加茂季鷹の歌では
今は又川にさし出の磯千鳥ふりし昔の跡をとめけり
となっていますが、加茂季鷹は1754~1841の人だそうですから、18世紀には川になっていたけれど「ふりし昔」には磯だったのだということが江戸時代にはまだ伝えられていたようですね(^o^)。
「差出の磯」が本当に磯だったのであれば、「塩の山(しおのやま)」に由来するという「塩山」も、実際にここで塩が作られていたか、岩塩がとれたということかもしれません(^_-)。
甲州市や山梨市は甲府盆地にあるのですが、奈良盆地や会津盆地がかつて海だったように、甲府盆地もかつては海だったのではないでしょうか。