2015.8.30 諏訪湖と塩
阿智村や塩街道と言われていた三州街道のことを考えていて、なぜヤシマジヌミノミコト(タケミナカタノミコト)はわざわざ海から遠くて標高も高く、塩の手に入りにくい諏訪の方まで行って諏訪湖の辺りを本拠としたのだろうと疑問に思ったことを思い出しました(^_^.)。
実は子供の頃買ってもらった本に「敵に塩を送る」という信玄と謙信の話が載っていて、信玄と謙信がどんな人なのかは知らなかったのですが、それを読んで「塩は人間に必要不可欠なものらしい」ということが強く印象に残っていたのです(^o^)。
ところが、ヤシマジヌミノミコトが出雲から諏訪に進出した2~3世紀頃には、諏訪湖の周辺にはすでに諏訪大社の神長官だった守矢氏の御先祖を始めとしてたくさんの人が住んでいたのですし、それどころか諏訪や八ヶ岳の周辺には縄文時代や旧石器時代の遺跡がたくさんあるのです。
なぜそんな大昔から海や塩からは最も遠かったと思われる場所にたくさんの人が暮らしていたのだろう?わざわざそこを選んで多くの人が暮らしていたのであれば、ひょっとすると諏訪や八ヶ岳の周辺では塩を簡単に手に入れることができたのではないか?・・・そんなふうに考えました(^o^)。
茅野市の標高1060mの所にある縄文時代中期の尖石遺跡の「尖石」
尖石遺跡と浅い沢1つを隔てた北側の台地上にも「与助尾根遺跡」があるそうです(^o^)。
それなら八ヶ岳周辺は海だったのではないか?と考えながら地図を眺めると、小海線の沿線には小海・海ノ口・海尻などの地名があります。ひょっとすると本当に八ヶ岳は大昔には海で、1000m以上の山になってしまった後もモンゴルのように岩塩がとれたのかもしれないと考え、2009年に野辺山の資料館に確かめに出かけてみたのですが、その途中には縄文時代の遺跡の金生遺跡もありました(^o^)。
八ヶ岳南麓の北斗市の標高760~80mの尾根上にある縄文時代の集落跡「金生遺跡」
野辺山の資料館では、太古の昔に八ヶ岳が海底であったことは確かめられたのですが、人類が住むようになった頃(小海・海ノ口・海尻などの地名が付けられた頃)にもまだ海の痕跡が残っていたのかどうかを知ることはできなかったので、それなら、と「この近辺で岩塩がとれる場所はありませんか?」としつこく聞いてみたのですが、そんな場所はないし聞いたこともないという返事でした<(_ _)>。
小海線の野辺山駅