2015.8.29 本田善光は百済の王子・余善光8 阿智村
阿智村についてもう少し詳しく知りたいと思い調べてみました。
地図を見ると、塩尻から天竜川に沿って伊那谷を下って来た古代からの重要な街道であった三州街道は、飯田市で分岐し、大きく西に曲がって阿智村を通っています。この迂回(?)が地形の制約によるものなのか、阿智村を通すためだったのかは分かりませんが、古代の官道である東山道も阿智村を通っていて村内に阿知駅があったそうですし、阿智村には三州街道の浪合宿もあったそうですから、古代の阿智村は主要な道の交差する交通の要衝だったようです。駅や宿場があったのですから、近隣の集落より人口も多くこの辺りの中心地だったのでしょうね。
『源氏物語』の「帚木」の帖の巻名にもなっている帚木は、この阿智村にあったのだそうで、帚木の名を伝える檜の根元の幹が阿智村園原の月見堂(伝教大師・最澄が建てた広拯院の跡地と考えられている)の裏手に現存しているそうです。歌や小説に登場し、最澄も来たという阿智村は、当時の人には広く知られていた所だったようです(^o^)。
そこで地図で浪合宿を探してみると、阿智村浪合には「尹良親王墓」と称する円墳があり、その付近の地名は「字 宮の原」であることが分かったのですが、この地名と古墳の存在は、この古墳の被葬者の宮がここにあったということを示しているようです。
この円墳は、陪塚3基とともに宮内庁が「尹良親王墓」として管理しているそうですので、「尹良親王 Who?」と調べてみると、尹良親王は南朝の後醍醐天皇の孫で15世紀の人だったようです。でも、15世紀になっても親王のお墓に陪塚が造られていたのでしょうか???
この尹良親王は、『浪合記』『信濃宮伝』などの軍記に登場する人物で、父親王の討幕の遺志を継いで東国各地を転戦したと伝えられているそうですが、信憑性は極めて乏しく、歴史学の立場からは実在性を疑問視されているのだそうです(^o^)。どうもこれも作家が創り出した歴史(オハナシ)であって、尹良親王は架空の人物のようですね(^_-)。
『古事記』を始めとして軍記物などの歴史小説の作家は、架空の人物やそれらしいオハナシをいろいろ創ってしまっているんですよね~。そして、そのオハナシが面白くて登場人物が魅力的だと一般庶民の私たちは登場人物に感情移入しながら、それこそが真実の歴史だと思い込んでしまうわけですが、そのオハナシに合わせていろいろな史跡が造られていたりするので、ますますややこしくなってしまっているのです<(_ _)>。
ここまでに宮内省の古墳の治定というのはなんていいかげんなものなのだろうと思うことが多かったのですが(wikipediaによれば、治定が信頼できるのは天智天皇と天武天皇の陵くらいのようです)、宮内省はここでも架空の人物に古墳を割り当てていたのですね。まあ、宮内省の古墳の治定はいいかげんだったというよりも、自分たちが拠り所とする『古事記』のウソ八百の記述を現実化するために『古事記』に登場する架空の人物たちにも確信犯的に古墳を割り当てたということのようですが(^_-)。
例えば、継体天皇は実在の人物ですが、6世紀(531年)に亡くなったのに、そのお墓は生まれる前の5世紀に造られた古墳に治定されているんですよね(^_-)
継体天皇陵に治定されている太田茶臼山古墳
阿智村浪合には「字 宮の原」とか「字 御所平」とかの地名があって尹良親王の御所があったとされ、尹良親王墓と称する円墳もあるのですが、後醍醐天皇の孫で東国各地を転戦していたという尹良親王は、わざわざ遠い浪合に宮を造って住んでいるヒマはなかったようですし(^_-)、岐阜県の中津川市蛭川と恵那市笠置町毛呂窪にも親王の墓所と伝えられている場所あるそうですから、もしも親王が実在の人物だったとしても、この円墳や宮は尹良親王とは関係ないのではないでしょうか(^o^)。
もし、「字 宮の原」や「字 御所平」などの地名が軍記に合わせて後世に作られた地名ではなくて15世紀以前からあった地名であり、この円墳が15世紀以前に造られたものであるならば、ここにあったのは阿知使主の子孫の宮で、この円墳はその子孫の墓かもしれません(^o^)。
でも宮内庁の管理下にあるということはこの古墳の調査はできないということですから、この古墳が7~8世紀に造られたものなのか、15世紀に造られたものなのかを知ることはできないということなのですよね(T_T)。
ところで、5年前に古代の地形についての推理を「奇を衒った説だ」と言われた時、私はまだプレート理論というものを知らなかったんですよね(T_T)。
今なら「あなたには知識が足りないようだからもっと見識のある人に回せ」と反撃できたかも(^_-)?