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穂高神社と安曇野122 安曇族(海人族)60 宗像神社2

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2016.11.7 穂高神社と安曇野122 安曇族(海人族)60 宗像神社2

 

宗像神社には↓のような石柱が建っていました。

 
イメージ 1

 

「遠祖高階真人忠峰が元慶5年に当社に奉仕して以来1030年 代々の子孫の頼恩に謝し奉るため昭和51月に之を建つ」と読むのでしょうか?これは「登美山にいます宗像明神」が先祖だということであり、明神はニンゲンだということですね(^o^)

 

これを建てたのは高階真人忠峰の子孫のようですが、元慶は877年から885年までの期間ですから、高階真人忠峰は宗像神社が神階1位を得た時の宮司さんだったようです

 

「真人」というのは、天武天皇が684に制定した八色の姓(やくさのかばね)で王族に与えられたカバネですが、それではなぜ王族の高階真人忠峰がこの神社の宮司になっていて、この神社が1030年の間高階忠峰の子孫たちのよりどころになって来たのかというと、高階氏が高市皇子の子孫であり、宗像神社は高市皇子の母方の祖先を祀る祖廟だったからでしょう(^o^)

 

高階氏の系譜は

天武―高市皇子―長屋王―膳夫王・葛木王・鉤取王・安宿王・黄文王・桑田王であり、この高市皇子の孫の桑田王の子孫が臣籍降下して高階真人になったのです。

 

天武天皇と宗像徳善の娘の尼子娘との間に生まれた高市皇子の子孫たちは、藤原氏によってことごとく殺されたり都から遠ざけられたりしてしまったのですが、その中で唯一桑田王だけが臣籍降下し、皇位継承権のない高階真人となって生き残ったようです。

 

神社とは先祖を祀るために造られた祖廟であり、そこで先祖を祀ることができたのはその子孫だけだったのですから、この面からみても元慶5年に宗像神社の宮司になった高階忠峰は宗像氏の子孫だったはずです。ひょっとすると高市皇子の子孫の中で桑田王だけが生き残ったのは、藤原氏が宗像神社を祀らせるために一人だけ子孫を残したということなのかもしれませんね。

 

『古事記』が、「大物主神の祟りで人民が死に絶えんばかりになったので、崇神天皇は祟りを恐れて大物主神の子孫のオオタタネコを捜し出し、三輪山で大物主神を祀らせた」と記しているように、子孫を皆殺しにしてしまって祀る子孫がいなくなると祟りがあると信じられていたようですから(^o^)

 

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