2016.11.5 穂高神社と安曇野121 安曇族(海人族)59 宗像神社
あちこち飛んで行ってしまいましたが、10.27の金刺宮の続きに戻ります(^o^)。
欽明天皇の金刺宮があったのではないかと考えた城島小学校から、応神天皇の忍坂宮があったのではないかと考えた朝倉小学校(脇本遺跡)に向かい、次に「何代目かの大国主」の墓なのではないかと考えた茶臼山古墳に向っていると、途中で「式内大社・宗像神社」の石柱が眼に入りました。
その時(2015.5)の私は、天武天皇の妻の一人で高市皇子の母となった人が「宗像徳善」という人の娘だったということ以外は、宗像神社についても海人族についても何も知らなかったのですが、どうしてここに宗像神社があるのだろう?「式内大社」ということは宗像氏の祖廟のようだけれど、尼子娘や天武天皇や高市皇子と何か関係があるのかもしれないと思い付いたので行ってみました(^o^)。
式内大社 宗像神社
この由緒を見て、やはり宗像徳善は筑前の海人族の宗像氏だったようだから、それではこの宗像神社は宗像氏の祖廟だったに違いないと確信しました。
北九州にいた海人族のうち、4世紀末の崇神の東征時に東征軍に加わって武人として戦った一族は、東征後に崇神天皇から論功行賞として奈良の来目邑(橿原市一帯)を賜り、「来目氏」を名乗ってその初代となった大久米命を祀る祖廟(久米御県神社)を造っていますが、
天武天皇とのゆかりが記されているこの宗像神社は、462年に百済から北九州に渡来した百済の王子・余昆(後の応神天皇)と共に5世紀の後半に紀ノ川を遡って宇陀から奈良に入った筑前の海人族・宗像氏が鳥見山に造った祖廟のようです。
1341年に兵火で焼失するまで鳥見山の中腹にあったというこの宗像神社は、余昆が朝倉小学校の辺りに忍坂宮を置いた時、忍坂宮の近くの鳥見山の付近に自分の居を定めた宗像氏が鳥見山の中腹に造った祖廟だったのではないでしょうか。
宗像氏は余昆と共に奈良に入った後、代々応神天皇の子孫に仕えていたようで、天武天皇の時代には宗像徳善の娘の尼子娘が天武天皇の妻となって長子の高市皇子を生み、880年にはこの宗像神社は神階1位を有して筑前の本社に次ぐ大社になっていたようです。
その後宗像神社は衰微して、その神域は興福寺の支配下に置かれ、春日神社を祀るようになったと記されていますが、興福寺は藤原氏の氏寺、春日神社は藤原氏の氏神ですから、宗像氏は領地を藤原氏に奪われ、祖先を祀っていた祖廟の宗像神社は、藤原氏の氏神を祀る春日神社に変えられてしまったということなのでしょうね(T_T)。
これは天武天皇の死後、崇神天皇の子孫の藤原氏によって天武天皇(応神天皇)の子孫たちが次々に殺され、応神系の王族の力が弱められていったのと同時に、応神側にいた貴族達も謀反に加担したなどの冤罪を着せられ、殺されたり領地を取り上げられたりして力を削がれていったということなのではないでしょうか(T_T)。
衰微していたこの神社が再建されたのは万延5年(1860)のことで、春日神社から本来の宗像神社に戻れたのは明治21年(1888)のことだったようです。