2016.11.2 穂高神社と安曇野119 安曇族(海人族)57 釈迦三尊像のモデル?2
私が男の人の顔だと思った三尊像の釈迦像は、専門家には「表情が非人間的で現実の人間の顔からはほど遠いことが一目見れば分かる」のだそうで、「この表情は止利様式に完全に従って造られたもの」なのだそうですが、私が↓の写真を見て男の人の顔だと思ったのは、素人の私が「止利様式」というものを知らなかったからなのでしょうか?
先日の新聞に「素人のように考えよ」という記事があって、
実は私も古代史の謎解きをしながら同じことを感じていたのですよね。専門家の見方は文献や既存の説や知識に捉われすぎているんじゃないかな~?と(^_-)。
文献や諸説の知識を持ち合せていない素人の私の普通の感覚では納得できなかった専門家の見方や解釈に、本当にそうなのだろうか?と自分で見て確かめてみようとしたら、専門家の解釈とは全く異なる思いがけない歴史の事実が次々に見えてきて、それが面白くて楽しいので止められなくなってしまっているのです(^o^)。
文献の知識を豊富にお持ちの方々は、「文献」そのものの矛盾には疑問を持つことがないようで、全てのものを文献のフィルターを通して見ているため、実際にはあり得ないものまであるように見えてしまうようです(^_-)。
『日本書紀』が創った架空の聖人である「厩戸皇子」は、8世紀に「聖徳太子」という諡号を得ると、学者さんたちのお力添えもあって(?)独り歩きを始め、様々な説話や逸話や伝説が創られて信仰の対象になっていったようで、鎌倉時代以降「太子信仰」は隆盛となって江戸時代には庶民層にまで浸透していたそうで、それに合わせてたくさんの彫像や肖像画などが作り出されたようです(^o^)。
戦後、法相宗から聖徳宗に鞍替えしたという法隆寺には、聖徳太子の二歳像・七歳像を始めとして三十数体ものさまざまな聖徳太子の彫像があるそうですが、中でも最も尊ばれて秘仏扱いになっているのが↓の「聖徳太子座像(聖霊院御影)なのだそうです。私は初めて見たのですが、三尊像とは全く違う顔ですね。
でも三尊像を造った鞍作止利は、同時代を生きていたばかりではなく、17年以上も聖徳太子(アメノタリシヒコ)のそば近くにいた人なのです(^o^)。