2016.10.31 穂高神社と安曇野117 安曇族(海人族)55 干支と西暦2
『日本書紀』は、継体天皇が亡くなったのは庚寅(こういん)年(534)だと記していますが、注として【『百済本紀』には「辛亥の年に日本の天皇と太子・皇子が皆亡くなったと記されている」】と記しているそうです。なぜわざわざ『日本書紀』の記事を否定するような注を入れたのでしょうね?
でも、当時ワカタケル王の親衛隊長だった実在の人(ヲワケ臣)が「辛亥年には磯城宮にいたワカタケルが大王だった」と鉄剣に刻ませていたのですから、継体天皇が亡くなったのは534年で、その後安閑・宣化が天皇になり、欽明天皇が即位したのは539年だと記した『日本書紀』の記述は真っ赤なウソで、注に記されている年号が正しいようです。
けれど、503年に作られた隅田八幡銅鏡の銘文には「日十大王年」、531年に作られたこの鉄剣の銘文には「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と刻まれているように、6世紀にはまだ「天皇」という呼称はなく「大王」と呼ばれていたのですし、「日本」という国号もまだなくて「倭国」と呼ばれていたのですから、『百済本紀』に「日本の天皇と太子・皇子」と書かれていたはずはないと私は思います(^o^)。
「辛亥年七月・獲加多支鹵大王」の文字が刻まれた金錯銘鉄剣
「癸未年八月・日十大王年・斯麻(武寧王)」の文字が刻まれた隅田八幡神社人物画像鏡
注に「日本の天皇と太子・皇子」という言葉を記したのは『百済本紀』ではなく、8世紀に『日本書紀』を作った人達なのではないでしょうか。当時の日本に百済の歴史書である『百済本紀』が本当にあったのかどうかも分かりませんから、ひょっとするとこの注は引用ではなく、誰かが『百済本紀』の名前を使って「辛亥年に政変が起きて継体・安閑・宣化が殺された」という事実を書き加えたのかもしれません。
ところで、飛鳥寺の露盤を作ったのは百済の威徳王から577年に送られてきた露盤博士ですから当然百済人だったわけですが、それではなぜ百済人が記した干支を『日本書紀』の天皇の○年や西暦に換算することができたのかというと、高句麗も新羅も百済も日本も、中国で作られた同じ暦を使っていたからで、暦に使われている干支は途中で変ってしまったりはせず、現在まで連続しているからなのです(^o^)。
西暦の年号も現在まで連続していますから、現在の干支と西暦から古代の干支を西暦に換算することができるわけですが、西暦は一つずつ数が増えていくので同じ年はないのに対し、干支は十干十二支の組み合わせのため60年で一巡して最初に戻ってしまい(還暦)、60年毎に同じ干支が出てきてしまいます。
例えば1911年に中国で起きた革命は「辛亥革命」と呼ばれていますが、これは1911年も辛亥年だったからで、同じ干支の年号はこのように60年毎に繰り返し出てきてしまうのですから、『記紀』のウソを元に解釈している限り鉄剣に刻まれた「辛亥年」が471年なのか、60年後の531年なのか決め手はないわけです。どちらもウソの記述の上に作り上げた「説」にすぎず、全てのつじつまを合わせることはできないのですから(^o^)。