2016.10.30 穂高神社と安曇野116 安曇族(海人族)54 干支と西暦
飛鳥寺の露盤には塔が完成したのは「丙辰年十一月」、金錯銘鉄剣にはヲワケ臣がこの剣を造らせたのは「辛亥年」、隅田八幡神社人物画像鏡には斯麻(武寧王)がこの鏡を造らせたのは「癸未年八月」、釈迦三尊像光背には鬼前太后が崩御したのは「辛巳十二月」で釈迦三尊像を発願したのは「癸未年三月」というように、全ての年号は西暦○年や「天皇の治世の○年」ではなく、干支で記されているのです。
釈迦三尊像光背銘文
一般人の私は近づくことも直接見ることもできませんでしたが、たまたま10.23の新聞に↑の写真が載っていました(^o^)。
↑には「621年12月に聖徳太子の母が亡くなった」と要旨が書かれていますが、実際は「辛巳十二月に鬼前王后が崩じた」と刻まれているのであって、621年だとも、推古天皇の29年だとも、亡くなったのは「聖徳太子の母」だとも書いてはありません。
鬼前王后を聖徳太子の母、辛巳年を「推古天皇29年(621)」だとしているのは、「辛巳年は西暦の621年で、621年は『日本書紀』では推古天皇の29年にあたるのだから」という学者さんたちの解釈なのですが、『記紀』を盲信する学者さんたちは、推古天皇や聖徳太子は実在の人なのかどうか、その在位期間は本当なのかどうかなどということは一切考えていませんし、検証もしていないのですから、「推古天皇29年」という年号が推古天皇の実在を示しているわけではありませんし、辛巳十二月に亡くなった鬼前王后が「聖徳太子の母」であったことを実証しているわけでもありません。
つまり、これらの解釈は『日本書紀』を盲信する学者さんたちの思い込みによる「つじつま合わせの説」であって事実でも実際の歴史でもないのですが、こういった学者さんたちの「つじつま合わせの説」が、なんの疑いも無く既定の事実として記され、広められて真実の歴史として信じられていったのですね<(_ _)>。
同様に『日本書紀』を盲信して金錯銘鉄剣の「辛亥年」を西暦471年だと解釈した学者さんは「辛亥年」は「雄略天皇の16年」と書き、この辛亥年を60年後の西暦531年だと解釈した学者さんは「辛亥年は継体天皇の25年」と書くわけですが、雄略天皇は実在したのか、継体天皇の在位は本当に507~534年だったのか?などということは考えてみたこともないようです<(_ _)>。
でも『記紀』を盲信することを止めて論理的に検証してみれば、464~506年に実際に王位に就いていたのは応神天皇であり、456~479年に在位したという雄略天皇は架空の天皇であることが分かりますし、応神天皇が在位中だった471年に別の人が大王に即位していたはずはありませんから、金錯銘鉄剣の銘文にある「辛亥年」は471年ではありないのです(^o^)。
それに、ワカタケル王(欽明天皇)は、応神天皇の孫だったのですしね。