2016.10.29 穂高神社と安曇野115 安曇族(海人族)53 橿原考古学研究所
非論理的な『記紀』のつじつま合わせではない納得できる歴史を知りたいと思って博物館や資料館に行ってみても納得できるような説明は得られなかったので、私は自分で考えてみることにしたのですが、その結果分かってきたのは学者さんたちが拠り所にしている『記紀』にはウソや作り話が多いということであり、もし発掘で本当の歴史を示すものが出てきたとしても、それらは全て『記紀』のウソに沿った解釈をされてしまっているということでした<(_ _)>。
以前「橿原考古学研究所編」の「平城京100の疑問」という本を読んだ時、私は疑問を感じて納得できませんでしたし、
去年、大規模遺構が甘樫丘で発掘された時の橿原考古学研究所の「舒明天皇の初葬地」との見解にも納得できませんでした。
それらから推して橿原考古学研究所の皆さんは確信的な『記紀』信奉者のように思われるのですが、『記紀』を信奉している限り、発掘されたものが示している本当の歴史と『記紀』の記しているウソのあいだには矛盾が生じて「謎」は増えるばかりですから、発掘の成果を上げるにはまず『記紀』信奉を止めるのが先決なのではないでしょうか(^o^)。
そう思ったので、桜井市探訪の後橿原考古学博物館へ行ってみた時、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を進呈してきたのですが・・・・・・
「『記紀』信奉者はかなり明確な事実を目の前にしてもなお「『記紀』信奉」を放棄しないことが多く、この「信念の慣性力」は侮りがたく強いものである」ようで、どれほど科学的な裏付けを示しても、『記紀』はウソを記しているというような見方が受け入れられることはないのでしょうね<(_ _)>。
けれども、例えば「隅田八幡銅鏡の銘文」という年号や人名や地名の入った古代史の謎を解く手がかりとなる考古学的資料があるのに、学者さんたちがその銘文を読み解くことができず、銘文自体を「謎」だとしてしまっているのは、「応神天皇は3世紀に神功皇后から生まれた」という『記紀』の大ウソを信じ込んでいるからですし、やはり年号や人名や地名の入った稲荷山古墳の鉄剣の銘文の「辛亥年」が471年なのか531年なのかを決定することができないのも『記紀』のウソを信じているからなのです。
3世紀に応神天皇を生んだことになっていた神功皇后は、架空の人物として「歴代の天皇」からも教科書からもとっくの昔に削除されてしまっているのですから、応神天皇が神功皇后から生まれたはずはないのですけれどね(^_-)。
戒重の春日神社が敏達天皇の宮跡だとされているのも、脇本遺跡が雄略天皇の朝倉の宮跡だと考えられているのも、甘樫丘で発掘された大規模な遺構が架空の舒明天皇の初葬地だと考えられているのも、牽牛子塚古墳が斉明天皇と間人皇女の墓だと考えられているのも、都塚古墳が蘇我稲目の墓だと考えられているのも、やはりみな敏達天皇・雄略天皇・舒明天皇・斉明天皇・蘇我稲目が存在したとする『記紀』の作り話を信じているからなのですよね。
甘樫丘で発掘された大規模な遺構
牽牛子塚古墳
牽牛子塚古墳の石室
1960~70年代に一世を風靡したというニューアーケオロジーの洗礼を受けたはずの現代の考古学者さんたちにとっても、相変わらず『記紀』の記述はどのような科学的事実よりも優先するもののようです<(_ _)>。
先日読んだ本には「フランシスコ・ザビエルは日本人が非常に好奇心旺盛で理性的であり、地球の大きさや宇宙の姿など、いろいろな事柄に興味を持って質問し、それらに答えると非常に満足することに気が付き、天文学や科学の伝授を布教の重要な手段とした。」と記されていましたし、ノーベル賞を受賞された方々のお仕事を見ても、本来日本人は理性的で論理的だったのではないかと思うのですけれど、「歴史はロマンであり、理性や論理で考えるものではないのだ」ということなのでしょうか?