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穂高神社と安曇野114 安曇族(海人族)52 敏達天皇

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2016.10.28 穂高神社と安曇野114 安曇族(海人族)52 敏達天皇 
 
桜井市戒重の敏達天皇の訳語田幸玉宮があったとされている春日神社へも行ってみたのですが、やはり私にはそこが天皇の宮があった場所だとは思えませんでした。宮址だと思えるような雰囲気も学校や公共施設のような空間もありませんでしたし<(_ _)>
 
戒重の春日神社
イメージ 1


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イメージ 3

 
やはり敏達天皇は架空の天皇で、ここに訳語田幸玉宮があったというのはウソのようだと思い、改めて敏達天皇について確認してみると、「敏達天皇は額田部皇女を妻にしていたのに、なぜ皇女ではない広姫を皇后に立てたのかは不明」だとか、「亡くなったのは24歳、37歳、48歳、61歳の諸説がある」だとか、「蘇我馬子を大臣にしていた」だとか、「桜井に宮があったのに陵は大阪の南河内郡にある」だとか、「天皇だったのに母親の墓に合葬されている」だとかと、やはり不自然なことばかりです。
 
『記紀』を信奉する学者さんたちは、この不自然さのつじつまを合わせるためにいろいろな説を作っているようですが、「欽明天皇の皇女」という最高の身分の女性を差し置いて、皇女より身分の低い女性が皇后に立てられることなど絶対になかったはずです。なぜならそれが「身分制度」というものなのですから。
 
実際は敏達天皇とされている「渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)」は天皇にはなっていなかったのですから、皇女ではなかった妻の広姫も皇女をさしおいて皇后になったりはしていませんし、広姫が亡くなった後で皇后に立てられたという額田部皇女(後の推古天皇)は架空の人物であって欽明天皇の皇女ではありませんし、皇后にも天皇にもなっていません(^o^)
 
「蘇我馬子」がこの時の本当の大王(天皇)であり、隋書にある隋使・裴世清が謁見した「オオキミ・アメノタリシヒコ」であって、煬帝に国書を送った「日出処の天子」なのです。この辺りの『日本書紀』の記述はウソばかりの作り話なのですから、どんな説を作ってみても全てのつじつまを合わせることはできないのです(^_-)
 
敏達天皇は母の墓に合葬されたことになっており、36年も天皇として在位していたはずの推古天皇も息子の武田皇子のお墓に合葬されたことになっています。これは、『記紀』の中で架空の天皇は創ったものの、実在していなかった天皇には実際の陵墓は造られていなかったから、すでにあった誰かのお墓に合葬したということにしたのでしょう(^o^)
 
ところで江戸時代まで、大地震を引き起こすのはナマズだと信じられていて安政の大地震の後、江戸を中心に鯰絵が大流行したそうですが、
 
最近は地震があるとその原因は、祟りやナマズではなくプレートの動きとそれによって生じるひずみのエネルギーなどで論理的に説明されるようになってきていますよね。
 
ところが歴史学では、相変わらず科学的な知識は全く無視して非論理的な「文献」を信じたまま、まるで地震の原因を怨霊やナマズで説明しようとしているような解釈をしていますし、考古学も、表面上は「地震が起きたのはプレートが動いたからだ」としているものの、根底では非論理的な『記紀』を信じたままで、そのプレートを動かしたのは怨霊やナマズであるというような解釈をしているように私には見えるのですが<(_ _)>、せっかく科学的な調査や発掘をしているのですから、その結果を非論理的な『記紀』の作り話に合わせるのではなく、論理的に解釈してほしいものです。
 
一般人の私は、推理で予想した場所を自分で掘ってみたりすることはできませんし、許可がなければ発掘した現場を実際に見ることさえできず、博物館や資料館や本に書かれた学者さんたちの解釈や見解でしか発掘の結果を知ることはできないのですから(T_T)
 

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