2016.10.27 穂高神社と安曇野113 安曇族(海人族)51 磯城嶋金刺宮3
資料によれば城島小学校では、平成3年に改築のための事前調査で、7世紀前半から中頃の5棟の大きな掘立柱建物跡とこれに付随する柵列遺構が発見されているのだそうですが、この「○世紀頃」というのはどのくらい正確なものなのでしょう?
もし欽明天皇の金刺宮の址なのであれば、6世紀前半から中頃の建物のはずなのですが・・・・。1世紀には100年もの幅があるのですが、1000年以上も前の柱の穴の跡からどのくらい正確に判断できるものなのでしょうね?
発掘された建物跡
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いずれにしても1400~1500年も前に大きな建物が、現在見つかっているものだけでも5棟(発掘したのは1260㎡だそうですから、範囲を広げればもっと増えるのかもしれません)も造られていたのであれば、それは王宮として造られたものであって、そこに住んでいたのは大王だろうと私は思うのですが(^o^)。この建物跡が6世紀前半から中頃のものであるなら、この建物群は欽明天皇の金刺宮でしょう。
でも、もし7世紀前半から中頃のものなのであれば、531年に磯城で即位した欽明天皇の金刺宮の建物跡はその下にあるのかもしれません(^_-)。
この遺構からは土師器や須恵器も出土したようですから、それらの生活雑器から7世紀前半から中頃の遺構と判断されたのかもしれませんが、そうであれば欽明天皇が571年に亡くなった後、7世紀にここに家を建てて住んでいた人がいるということになりますよね(^o^)。それでは、7世紀に欽明天皇の王宮の跡地に住んでいたのはいったい誰だったのでしょう?
大王(天皇)の王宮(皇居)だった所に、1000年以上も経ってからならともかく100年も経たないうちに他の氏族や赤の他人が住んだり、自分の家を造ってしまったりできたはずはありませんから、欽明天皇の直系の子孫だったのではないでしょうか。
例えば、都が京都から東京に移って天皇がいなくなってしまってからも、京都御所はそのまま保存されていますし、別邸や「○○の宮」邸などもそのままか「○○の宮邸址」として保存されていますよね。もし、その京都御所に家を建てて住むことができる人がいるとすれば、それは天皇の直系の人だけなのではないでしょうか(^o^)。
すると7世紀に欽明天皇の王宮の跡地に住んでいたのは、欽明天皇の5世の孫で天武天皇の皇子だった大津皇子かもしれません。大津皇子は、686年に天武天皇が亡くなると、直後に謀反の罪を着せられて24才で磐余(いわれ)にあった自邸で自害させられたそうですが、資料によればこの辺りが当時磯城・磐余と呼ばれていた所だったようですし、686年に亡くなった大津皇子が磐余の宮に住んでいたのは7世紀の中頃なのですから。
欽明天皇と大津皇子の関係は、
欽明―用明―馬子―蝦夷(高向王)―天武(漢皇子)―大津皇子
531年からから571年まで欽明天皇が住んでいた王宮に600年代の中頃に住むことができた人は誰か?と考えてみると、皇位継承権第1位で皇太子だった草壁皇子か第2位の大津皇子だろうと思うのですが、草壁皇子の殯(もがり)は島庄の「嶋の宮」で行われたようですから、草壁皇子は、天武天皇の宮(王宮)のあった明日香の「岡」に近い「嶋の宮」に住んでいたようです。
「嶋の宮」は草壁皇子の曽祖父の馬子(アメノタリシヒコ)が622年まで住んでいた王宮があった所ですね。この宮跡もやはり小学校になっていたのですが、今は駐車場になっています。
それでは7世紀に欽明天皇の王宮の跡地に住んでいたのは、やはり欽明天皇の直系の子孫で第2位の皇位継承権を持ち、磐余に宮があって686年に24才で亡くなったという大津皇子だったようですね(^o^)。
宮はその辺りで一番いい場所に造られていたけれど、宮跡と伝わる地には誰も手を付けることができなかったから、明治以降に大きな敷地の必要な学校や公共施設を造ることができたということなのでしょう(^o^)