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穂高神社と安曇野112 安曇族(海人族)50 磯城嶋金刺宮2 城島小学校

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2016.10.26 穂高神社と安曇野112 安曇族(海人族)50 磯城嶋金刺宮2 城島小学校
 
資料には磯城嶋公園内に「金刺宮址」の石碑があると記されているのですが、公園とその碑がどこにあったのかは分かりませんでした<(_ _)>。けれど、そこにその碑が建っている根拠は何なのでしょう?そこから宮跡の遺構が見つかっているのでしょうか?私は城島(シキシマ)小学校の敷地一帯が本当の「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」であろうと考えていたので行ってみなかったのですが・・・・・
 
磯城嶋公園内にあるという「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」の石碑
イメージ 1

 
城島小学校にはたくさん人がいたので、学校の中に入ってみることはできたのですが、この時は「城島遺跡」の資料を買ったその足で学校へ向かったのでまだ何の知識もなく、ただ城島小学校はどんな所にあるのだろうと場所を確かめただけでした<(_ _)>
 
城島小学校は平坦な土地に南向きに建っており、校舎の後ろには丸い山、前面には低い山が見えていました。地図を見ると、北の丸い山が標高457mの三輪山、南の低い山が標高245mの鳥見山のようで、資料によればこの一帯は扇状地だそうですから、肥沃で平坦な土地だったようです。
 
城島小学校正門
イメージ 2

校舎と背後の三輪山
イメージ 3

 
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校門と前面左手に見える標高245mの鳥見山
イメージ 5

 
ここは標高81.73mだそうです
イメージ 6

 
あの時は分からなかった「欽明天皇磯城嶋金刺宮址」の碑があるという磯城嶋公園はどこにあったのだろうと地図で探してみると、城島小学校の北東の大和川の南岸にありましたが、そこは欽明天皇の頃にはまだ水底か湿地で、大王が宮を造るような場所ではなかったと私は思います(^o^)
 
資料には「これまで行われた周辺の調査からは、洪水にともなう河川堆積や旧河道を確認しており、金刺宮に関する成果は未だ得られていない」とありましたが、この河川堆積は洪水によるものではなく、ここが海底や川底だった時のものであり、旧河道は水が退いて行く過程でできたものだろうと私は思います。
 
↑の学者さんたちが氾濫原だとか河岸段丘だとかとしている所は、川が氾濫してできたものではなく古代には海だった所なのです。府中市よりずっと上流の昭島市だってクジラの泳ぐ海だったのですから(^o^)
 
アキシマクジラ出土地
イメージ 7

 
160万年前にクジラが泳いでいた海は、現在は↓のような浅い流れになっています。
イメージ 8

 
この辺りが11番橋脚ですが、多摩川の水はさらに上流の羽村で8割が取水されているので、現在の多摩川は羽村より下流域の水を集めて流れているのだそうです。
イメージ 9

 
大和川の川縁で「金刺宮に関する成果は未だ得られていない」のは当然でしょう。古今東西、権力者がどのような場所に宮や城や館を構えていたかをちょっとでも考えてみれば、洪水で水浸しになるような場所や川縁の湿地などに宮があったはずがないではありませんか(^_-)


宮址は「仏教伝来之地」の南にある城島小学校にあると私は思います。






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