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穂高神社と安曇野111 安曇族(海人族)49 磯城嶋金刺宮

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2016.10.25 穂高神社と安曇野111 安曇族(海人族)49 磯城嶋金刺宮

 

桜井市立埋蔵文化センターには脇本遺跡の資料はありませんでしたが、欽明天皇の磯城宮の資料はあるのではないかと出版物を探してみても見つからなかったので<(_ _)>「磯城宮の遺跡の資料はありませんか?」と聞いてみると、「城島遺跡」という冊子を出してくれました。


「あの~、シロシマではなく、シキシマの資料が欲しいのですが・・・・」「これがそうです。城島はシキシマと読みます」
 

城島遺跡

イメージ 1

 

これまで見た「シキシマ」は「敷島」・「磯城島」・「式嶋」・「志貴島」などで、「城島」と書かれたものは見たことがなかったので、エッ!!と驚いたのですが、すぐに納得しました(^o^)

 

実は、出かける前に磯城宮はどの辺にあったのか見当をつけてみようと地図を見ていて「城島小学校」を見つけ、その場所と広さからここが宮跡なのではないかと考え、資料を手に入れたら行ってみる予定だったのですが、学校の名前が「磯城島」ではなく、「城島」となっていることが腑に落ちなかったのです。でもこの「城島」が「シキシマ」であるのなら、やはり欽明天皇の宮はここにあったに違いないと確信しました\(^o^)/。

 

以前、聖徳太子は磐余で生まれたとされているのを知った時、地図で磐余を探してみたのですが見つけることができず、磐余は今はもうない地名だということが分かって、奈良の地理や地名を全く知らなかった私は見当をつけることもできなかったのですが<(_ _)>、この資料によれば、三輪山の南麓から西麓にかけての一帯が古代から磯城・磐余と呼ばれていた所で、殊に南麓は古くから奈良・大阪・伊勢を結ぶ交通の要衝であり、昭和17年に桜井町と合併するまでここは「磯城郡城島村」だったのだそうです。

 

城島遺跡と周辺遺跡

イメージ 2

 

北に三輪山とその裾を流れる大和川(初瀬川)があり、南に鳥見山、鳥見山の北麓には4世紀初頭に築造された全長208mの桜井茶臼山古墳がありますが、天津族が侵攻してきたのは、4世紀末ですから、やはりこの古墳は天津族の大王墓ではなく崇神に滅ぼされる以前の王であった大国主のお墓ですね(^o^)

 

この一帯は、粟殿遺跡・赤尾崩谷古墳群・赤尾熊ヶ谷古墳群・慈恩寺遺跡・外鎌山北麓古墳群・三輪遺跡などの遺跡や遺構が密集していますから、石器時代から多くの人が住み続けていたよほど住みやすい場所だったようです。

 

城島遺跡があるのは、初瀬川(大和川)と粟原川が形成した扇状地だそうですが、『古事記』には「師木島の大宮」と記されているそうですし、昭和三〇年代には、この遺跡のほとんどは水田になっていたそうですから、欽明天皇の頃にはまだ本当に島だったのかもしれません。裴世清も百済からの使者も金屋の港まで船で来たのですから(^o^)

 

港に近く、各地に通じる街道が集まる水陸の交通の要衝で、しかもそれらの雑踏から水で隔てられた島だったのであれば、防御にも適したこの上ない立地条件ではありませんか(^o^)

 

欽明天皇が百済の聖明王から贈られた仏像が使者と共に上陸したのもこの金屋の港で、そこには「仏教伝来之地」の大きな石碑が建っていました。

 

「仏教伝来之地」の石碑

イメージ 3

 
イメージ 4

イメージ 5

 ↑には「この港に上陸した百済の使節は、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かった」と記されていますが、大和川を挟んですぐ南方にあるのが城島小学校なのです(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
 

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