2016.10.24 穂高神社と安曇野110 安曇族(海人族)48 脇本遺跡
改めて脇本遺跡について調べてみたところ、2012年9月に脇本遺跡の現地見学会と説明会があったという記事が見つかりました(^o^)。では、私が新聞で脇本遺蹟の記事を見たのは4年前の2012年だったようですね。
実は、去年(2015年)脇本へ行ってみたのはそこが目的だった訳ではなく、私が「架空の天皇」だと考えていた敏達天皇の訳語田幸玉宮を、学者さんたちは桜井市戒重にあったとしているので、桜井市戒重ってどんな所なのか、訳語田幸玉宮があったという場所はどこなのか、そこは本当に天皇が宮を置いたような場所なのかを確かめてみようと思って桜井市に行ってみることにしたのです(^o^)。桜井市には、他にも確かめてみたいことが山ほどありましたし。
学者さんたちはヤマトの初期政権の大王のお墓だとしているけれど、私は天津族の侵攻以前の大国主のお墓だろうと考えていた桜井茶臼山古墳や、その近くにあって大国主(トミの里のトミノナガスネヒコ)を祀っていたのではないかと考えた鳥見(トミ)山の等彌(トミ)神社や、欽明天皇が即位したという磯城と磯城宮を営んだという場所や、市が立った場所だという海柘榴市(つばいち)の場所などなど・・・
連休でもないと私は奈良まで行けないので、この際、日頃見てみたいと思っていた場所を時間の許す限り目いっぱい見てこようと、桜井市の地図を見ながら効率よく回るルートを考えていて脇本遺跡の記事のことを思い出したので、ついでに行ってみることにしたのです(^o^)。脇本遺跡の場所は分からなかったけれど資料館で聞けば分かるだろうし、脇本に行ってみれば案内板か説明板もあるだろうと思い、資料館では分からないし、現地には何の説明もないとは考えてもみませんでした<(_ _)>。
↑の「脇本遺跡の現地見学会」の記事によると、やはり地形から予想したように朝倉小学校や春日神社の下に遺跡があったようですね\(^o^)/。
そうであれば、学校の中には表示や説明板があったのかもしれません。でも、最近の学校は「関係者以外は立ち入り禁止」になっていますし、この時は、「宮はここにあったのではないか」というのはまだ全くの私の推理であって、確証があったわけでも、実際にそこに遺跡があることを知っていた訳でもなかったので、学校関係者でも肩書きを持つ研究者でもない一般人の私は学校の中に入ってみることができませんでした(T_T)。許可を取ろうにも人がいませんでしたし・・・・
そこにあるということを知っていれば、入っていって表示を探してみたのですけれど、入り口に「入ることを禁ずる」と大きく書いてあるのに、何の確信も無く入っていくことはできませんでした(T_T)。
でも↑の記事によれば、この「脇本遺跡の現地見学会と説明会」は『記紀』のウソをまるごと信じたうえでの「雄略天皇ゆかりの地をたどる現地見学会と説明会」だったようです。せっかく遺跡を発掘しても、それを架空の雄略天皇の宮跡だと信じ込んで見ているのでは、見えるものも見えず『記紀』のウソのつじつまを合わせる説がまた増えるだけですよね~<(_ _)>。
『記紀』には「雄略天皇は5世紀の天皇で、朝倉に宮を営んだ」と書いてあるのだから、朝倉には雄略天皇の宮があったはずだということを動かぬ事実として前提にしているから、「朝倉の隣の脇本から遺跡が出た」=「雄略天皇の朝倉の宮であろう」という説明になるのでしょうね。
『記紀』の記述の論理的な矛盾には一切目を瞑って、『記紀』に書いてあるものを発掘によって見つけ、『記紀』のウソを補強するのが考古学なのでしょうか(^o^)?
歴史学は「文献のつじつまを合わせる解釈学」のようだけれど、考古学は科学なのではないかと私は思っていたのですが、考古学も発掘や測定などから得たものを使って『記紀』の作り話のつじつまを合わせる解釈学だったようですね<(_ _)>。
「歴史学」と「考古学」