2016.10.22 穂高神社と安曇野109 安曇族(海人族)47 雄略天皇の朝倉宮
しばらく前に新聞で「桜井市脇本にある脇本遺跡で5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、雄略天皇の朝倉宮の有力な候補地とされている」という記事を見て、脇本ってどこなのだろう?と地図で探してみたことがありました。
脇本の地名は現在の朝倉や忍坂に隣接する所にあったので、雄略天皇は架空の人物だから「雄略天皇の朝倉宮」のはずはないけれど、忍坂には「隅田八幡銅鏡」の銘文に記されている応神天皇の「忍坂(意柴沙加)宮」があったはずだから、ひょっとするとその遺跡は応神天皇の宮跡かもしれないと考え、どんな場所なのかだけでも見てみたいと思っていたので去年の5月の連休に行ってみました(^o^)。
隅田八幡銅鏡と応神天皇の関係については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章の5をご参照ください。
脇本遺跡が脇本のどこにあるのかは分からなかったのですが<(_ _)>、詳しい場所は地元の資料館で資料を購入することにして、どの辺りにあるか地形から見当をつけてみようと地図で脇本の辺りを見てみると、現在の脇本と朝倉の境目に朝倉小学校があることが分かりました。
ここまでの経験から権力者の住まいである宮は、ある程度の広さのある平らな場所で、その辺りで一番良い場所に造られ、宮の跡は中世には城に、明治以降は学校や公共施設になっていることが多いようだということが分かっていたので、宮跡と思われる遺跡が出たのはその辺りなのではないかと行先の見当をつけました(^o^)。
そして、朝倉小学校に向かう前に、桜井市立埋蔵文化センターに行って場所を確かめ資料を入手しようとしたのですが、ここには脇本遺跡に関する展示物はなく、資料も全くありませんでした。そこで「脇本遺跡はどの辺りですか?」と聞いてみたのですが、脇本の発掘をしているのは桜井市ではなく、橿原考古学研究所なのでここでは何も分からないということでした(T_T)。縦割りなのか、縄張り意識なのか・・・・・
結局何も分からないまま、朝倉小学校に行ってみればその周辺に何か手がかりがあるのではないかと行ってみたのですが、その付近には発掘したような跡も説明板のようなものもなく、やはり何も分かりませんでした。誰かに聞いてみようにも付近には全く人がいませんでしたし(T_T)。
しかたなく宮跡なのではないかと見当をつけた朝倉小学校と、学校のすぐ近くにあったので応神天皇が忍坂宮に造った祖廟だったのではないかと考えた春日神社の写真を撮っただけで引き上げざるを得ませんでした(T_T)。
朝倉小学校
学校のすぐ近くにあった春日神社
この鳥居の前を通る道が旧伊勢街道のようです。
ここの注連縄は、これまで見たことのない珍しい形をしていました(^o^)。