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本田善光は百済の王子・余善光5 麻績(おみ)神社

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2015.8.26 本田善光は百済の王子・余善光5 麻績(おみ)神社

 

地図では元善光寺の近くの丘の上の標高480mのところに麻績(おみ)神社があるのですが、この神社の祭神は建御名方命ですから、ここは4世紀末の天津族の侵攻以前の大国主の時代からこの地の支配者が住んでいた場所だったようです(^o^)

 

諏訪は、出雲からやって来たスサノオノミコトの息子のヤシマジヌミノミコト(八嶋士奴美命 別名・建御名方命)が本拠地にした所であり、信濃の各地はヤシマジヌミノミコトの13人の子ども達が支配地を広げていった所ですから、麻績神社はその頃に飯田に進出して行ったその子孫がヤシマジヌミノミコト(建御名方命)を祀る祖廟として造ったものなのではないでしょうか(^o^)


ヤシマジヌミノミコトはクシナダヒメを母として出雲で生まれたのです。
 

スサノオノミコトとクシナダヒメと二人の間の子・ヤシマジヌミノミコトを祀る出雲の須我神社


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ご丁寧なことに別名の「タケミナカタノミコト」でも祀られていますね(^_-)

ヤシマジヌミノミコトの別名がタケミナカタノミコトであることの説明は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第7章「大国主の国譲りとは?タケミナカタノミコトとは?」第8章「タケミナカタは大国主の息子なのか?」をご参照ください。 アマゾンへ

 

私はこれまで飯田とは全く縁がなかったので何の知識もないのですが<(__)>pcat2sさまのコメントに「座光寺の付近には古墳が多い」とあったので、建御名方命を祀る麻績神社があるのだから、その古墳の中には34世紀の大国主時代に造られた前方後円墳があるのではないかと考えてちょっと調べてみました。飯田市には本当にたくさんの古墳や古墳群があるようですね。

 

長野オリンピックの時にラジオで、「長野県は南北に長くて北部と南部とでは全く様相が違い、オリンピックで盛り上がっているのは北部だけだ」との解説を聞いて驚いたことがあったのですが、改めて地図を眺めてなるほどと納得しました。北部の長野市と南部の飯田市とでは、別の県といっていいくらいに距離が離れているのですね(^o^)

 

出雲からやって来たヤシマジヌミノミコトが本拠としたのが信濃の中央部の諏訪で、南北に長い信濃の北部の中心地が長野、南部の中心地が飯田だったということのようです。

 

飯田市の古墳の一蘭をざっと見たところでは中期・後期とされている古墳が多いようですが、その中で、標高466mの飯田市松尾にある「代田山狐塚古墳」は前期のもので、この地方の最古のものだそうですから、これが、諏訪から信州南部に進出して行ったヤシマジヌミノミコトの子孫のお墓なのかもしれません(^o^)。

 

↑の「代田山狐塚古墳」の解説には「長野県下では、ほとんど時差なく北信・東信・中信・南信ともに古墳の築造が始められたことが確かめられた」とありますが、これは、ヤシマジヌミノミコトの子孫達が諏訪から四方に進出していって、支配地とした先々に墓(古墳)を造ったということでしょう(^o^)




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