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本田善光は百済の王子・余善光4

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2015.8.25 本田善光は百済の王子・余善光4

 

善光寺縁起にあった「本田善光は国司の従者として都に上った」という記述から、余善光は百済の王子として優遇され、来日して間もなく郡司の役職に就くことができたのではないか?と考えたのですが、よく考えてみるとこの縁起の記述にはおかしなところがあります(^_^.)

 

この縁起では、本田善光は「国司の従者」とされていますが、国司・郡司の体制になったのは律令制施行後のことですよね。ところが天智天皇が律令を作ったというのは真っ赤なウソ(不比等の捏造)で、日本で初めて律令を作らせたのは天武天皇であり、それが「飛鳥浄御原令」として発布されたのは天武天皇の死去後の869年のことなのですから、本田善光が日本にやって来た630年代に「国司」がいたはずはありません(^o^)。この縁起も後から創られたオハナシで、「本田善光は国司の従者として都に上った」というのはやはりウソのようです。

 

律令制の施行までは地方長官は「国造」であり、行政区域の単位は「郡」ではなく「評(こおり)」だったのですから、飯田~諏訪~長野~小山と移動し、行く先々に善光寺を造った本田善光(余善光)は郡司ではなかったことになります<(_ _)>。それなら善光はなぜ移動したのだろう?と考えたのですが、これについてもpcat2sさまの「(飯田市の)元善光寺(座光寺)は伊那郡衙の置かれていた場所で、近くに古墳も多いことを知りました」とのコメントが大きなヒントになって分かってきました\(^o^)/。

 

伊那郡衙の置かれていた場所の近くに古墳が多いということは、そこが古くからその地の支配者が住んでいたその辺りの中心地だったということであり、物流や交通の要衝だったということなのですが、地方官の役目は効率よく多くの税を徴収し、それを迅速に都に送ることだったのですから、国衙や郡衙はそういう交通の便の良い場所に造られたのです(^o^)


なぜなら、都で自らは労働も生産もしない王族や貴族たちが日々贅沢な食事をするためには、その食材が全国から迅速に送られてこなければなりませんものね(^_-)。

 

律令制以前は、国司・郡司という言葉は使われていなかったとしても、滞りなく徴税するためには各地に国司に当たる国造がいて、国造の下には評(こおり)ごとに郡司に当たる地方官吏たちがいたはずですから、善光は地方官吏としてこの評の赴任したのではないでしょうか(^o^)

 

元善光寺(座光寺)を地図で調べてみると、現在の川の流れからは少し離れていますが、天竜川の近くのようです。航空写真で見ると、天竜川から元善光寺(座光寺)のある丘までは飯田線の走る平地のようですから、古代諏訪湖の釜口付近が決壊し大量の水が流れ出だして天竜川ができた頃には、この丘の麓近くまで川幅があり水運の便が良かったのではないかと思います(^o^)。この辺りでは川は標高400mの所を流れていますが、座光寺の下を走る飯田線の線路は440m、座光寺がある場所は460mくらいのようです。

 

古代諏訪湖と天竜川については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第7章の6「古代の諏訪湖」をご参照ください。 アマゾンへ

 

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